『廊下は走るな』と、そんなどこにでもあるようなポスターの横をすり抜けて、私は教室までの道程を颯爽と駆けていた。危うく明日提出の宿題を置きっぱなしのまま帰宅するところだった。野球部が終わるのを待っているとき、ふいと思い出したのだ。
ぜえぜえと肩を揺らしながら立て付けの悪いドアを開けると、若干乱雑に並べられた机が目に入る。がらんと静かな教室に、私の息遣いだけが響いていた。
宿題宿題、と真っ直ぐ自分の机に向かおうとして、はたと思わず私は足を止めた。その視線はくしゃくしゃのまま机の上に置き去られたジャージに落ちる。
「…武くん、のだ」
それは確かに「山本武」のものだった。私がさっきまで校庭で待っていた人。このままにしてたらしわになっちゃうな、武くんらしいけどと小さく笑って、畳んでおいてあげようとジャージを取り上げた。ばさっと広げたその瞬間に、武くんの匂いがふわりとそよぐ。不意打ちなそれにどきりと心臓が脈打つ。
「………」
硬直した私の体と裏腹に、脳内では激しい葛藤が起こっていた。自制心と好奇心を天秤に掛けながら、私は広げたままのジャージを苦悶しつつ見詰めた。
(き、着てみたいなあ…でも隠れてそんなことしたらなんかい、いやらしいかな、でも武くん今部活の真っ最中だろうし…ば、ばれない、ばれない)
ぎゅ、とジャージを握り締めたのを合図にしたかのように、突然脳内天秤がかしゃんと片方に傾いだ。喉の奥で絡まった息をほどいてゆっくりと吐き出し、私は彼のジャージを胸に抱き締めてみた。
強くなる香り。香水やフレグランスでない、武くんたった一人の匂い。悪いことをしているみたいに、誰かに見られたらどうしようと、心臓がどくどく騒いでいた。放課後の無人な教室で好きな娘のリコーダーを手にする、男子の気持ちが解ったような気がした。解らなくてよかったと、後々打ちひしがれることになろうとは露知らない。
ジャージを制服の上からそっと羽織ってみた。長すぎて随分袖が余る。丈も私とは全然違くて、普通にしていても裾が膝裏まで隠してしまうほどだ。
「おっきい…」
武くんもやっぱり男の子だなあ、そう改めて実感すると、いきなりきゅうんと胸が苦しくなった。お化けみたいにでろんと垂れた両手の袖に顔を深く埋めて、すう、胸一杯に息を吸い込んでみる。大好きな匂いがひたひたと身体に染み込んでいくみたいで、つい夢中になって、罪悪感なんてとっくにどこかに飛んでいってしまっていた。服を一枚羽織っているだけなのに、まるで武くんに抱き締められているみたいで
「武くん…」
「うん?」
ぎゅ、と背後から本当に抱き締められて、私は一気に現実世界に引きずり戻された。発作を起こしてもおかしくないぐらいに心臓が飛び跳ねて、同時に間抜けな声を上げると、更に腕の力が強くなる。
「ひゃっ…!?」
「これ、俺のジャージだよな」
私の肩にすり、と顔を寄せるその人は、誰であろう武くん本人で。そういえばグラウンドがやけに静かだ。全く気が付かなかった。
「い、い、いつから」
「ついさっきー。ヒロインがジャージぎゅーってしてるとこから」
「(さ、最初からですね!)こ、これはその…宿題取りにきたらジャージが丸めて置いてあったから、畳もうと思って、」
「で、つい着ちまったって訳か」
「〜〜〜…」
かああっと顔が熱くなる。恥ずかしい恥ずかしい、まさか見られるなんて思わなかった。私変態決定じゃないか!
「ごめんなさい…」
「ん? 何で謝んの」
くるりと体を反転させられて、向かい合わせになってしまった。にこにこと嬉しそうな武くんの顔。真っ赤になった顔までも見られてしまった。
「すげぇくる、彼女が俺の服着てんのって」
胸元に武くんの頭が埋まると鎖骨にちゅっと唇の感触がして、堪らずびくんと体が跳ねた。彼の頭はそのまま私の耳元まで移動して、
「可愛いのな」
「ん、っ」
面白がるようなトーンで囁かれたと思ったら、そのまま優しい口付けで唇を塞がれる。
「ん、ん、…ッ」
気配だけじゃない、匂いだけじゃない、私は確かに武くんに触れている。ああどうしよう、今わたし、どんなお話に出てくるお姫様より幸せ者かもしれない。
「ヒロイン…」
武くんの吐息が私の唇を濡らす距離。呟く彼のテノールは、水面に広がる波紋のように私の頭の中を揺るがせる。
「武くん、」
「ん」
「好き」
握り締めた武くんの制服は、ジャージと同じ匂いを纏っていた。日直が閉め忘れた窓から入ってきた微風が、通り過ぎ様に私には長すぎるジャージの裾を緩やかに揺すった。
少女アリスは恋をする/20080331