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※ 10年後



今は私一人であるはずのアジト。薄赤い夕暮れの窓をぼんやりと見つめていると、ふと背後で人の気配がしたので、首だけ動かして振り向く。かつん、と靴の踵が床を叩く音と共に現れたのは山本、武だった。仕事を終えて帰ってきたかそれとも多少道草を食ったか、あるいは両方かもしれない。彼は顔や服、至る所を熟れすぎた苺のような真っ赤な血に染まっていた。

「お帰りなさい武。良い格好ね」

私のそんな皮肉にも武は小さく鼻で笑っただけで、血濡れたスーツをばっさりと脱ぎ捨てた。頬についたまだ生乾けな血を乱暴に手で拭いながら私のソファーの向かいに腰を据える。私はその様子を静かに観察してから、さっき蒸してきたばかりのタオルを片手に身を乗り出してそれを拭う。

「今日のターゲットは誰?」
「あー、ソフィア…なんとかっていうボンゴレのスパイ」
「…ふぅーん。今回は女だったんだ」

ひくりとひきつった人差し指。私が先程より血を拭う力を強めると、武は片目を瞑ったまま少しだけ眉をしかめて、しかし一瞬後には楽しげな笑みを浮かべた。ごしごしと血を落とそうとする私の手をぱしりと掴んで、何も言わずに私が彼の瞳をみればどこか面白がっているような視線が刺さる。

「なあ、ヒロイン」

掴まれた手の力が思いの外強くて、私は思わずタオルを取り落とした。毒づいた赤に染まったそれがテーブルにぼとりと音を立てて落ちる。
しかし彼はそんなことには一切興味がないようで、まだ鉄のにおいがする顔を私の正面に近付ける。同時に私の後頭部も大きな手に引き寄せられて、軽く鼻先がぶつかった。

「やきもち?」

必然的に唇にかかる吐息に私は肩を震わせる。確信を持って聞いてくる、その口調は少し癪だった。自惚れるなと頭をはたいてやりたかったが、それが事実である以上私はぐっと押し黙るしかない。
私が否定出来ないでいると武は「そっか」と短く言って、喉の奥で酷く可笑しそうに笑った。

「…何がおかしいのよ」
「いや? ただかわいーなーって思っただけ」

ちゅ、一瞬唇が重なる、目を閉じる隙もなかった。武は何かに酔ったように何度も幼いキスを重ねてきて、それは深まりもしなければ止みもしない。まるで魔法にかかったみたいに、なんて言えばロマンチックなのだけれど、私はとろんと眠くなるような感覚に陥る。

「ヒロインちゃんも嫉妬なんてするんだな」

どこか嬉しそうに武は呟いてまた触れるだけのキスを落とす。腹が立つというより恥ずかしくなって、私はやんわりと武の胸を押す。

「た、武がそんなかっこで…帰ってくる、から」
「ん、血にすら妬いちゃうくらい愛されて、俺幸せ者なー」

そんなふざけたことをくすくすと呟きながら、武は私を腕だけで抱えあげた。突然の浮遊感に驚いた私は声も出せず、武が座っていたソファーに何の抵抗も出来ないまま押し倒された。

「ひ、なっ」

絞り出したのはなんともか細い声だった。武は何も言わないで私の服の下をまさぐってくる。
人を殺すことはマフィアにいる以上本職と言っても過言ではないが、武はいつまで経ってもそれに慣れないでいる。
高ぶった感情を鎮める手立てとして彼は私を求めてくる。初めて武が任務から帰ってきたときから毎回例外なくそうで、私は一度もそれを拒んだことがなかった。彼の辛さを知っていたし、それを抑えることは私にしか出来ないことだと嬉しくも思っていたから。
でも、私の知らない女の血にまみれた今の武は、

「…い、や」
「…ヒロイン…?」

目を見ないようにしながら肩を押すと、武は少し戸惑ったように手を止めた。どうしようもなく優しい武は私が拒絶することなんて決してしない、だからいつもは受け入れた。
そろりと視線を絡めてみれば、彼の瞳は既に獣のような鋭い色を帯びていた。それに射抜かれた私は一瞬息を詰まらせる。

「…血、洗い流して、きて」

掠れる声で呟くと彼はやっと私の心情を理解したようだった。苦い笑みを浮かべて体を起こし、そして私の手を引いて同じように起き上がらせる。

「よ、っと」
「っ、なに」
「一緒に来て。この血、ヒロインが流してくれよ」
「………」

駄目か? なんて首を傾げる武の頬に残った赤を、無表情の私は親指で擦りとる。

「…いいわ。武を汚すもの全部、私が綺麗に落としてあげる」

武は決まって私を求める。私はそれを拒まない。


ハニートーストに仕込んだ毒/20080226