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ざああ、大粒の雨が部屋の窓を激しく叩く。湿気のせいでふやけ、捲りづらいページに苛々を募らせながらも、まだ半分も読み終えていない馬鹿みたいに分厚い本とにらめっこを続ける。雨季っていうのはやはりテンションが下がるな。いや、目の前に山積みされた未記録の資料を読めばいいだけの今、テンションの高低に重要性は皆無な訳だが。

ぱらりとまたページを捲ったとき、先程から窓辺で頬杖をついていたユウが大きく溜め息をついたのを聞いて、俺は何時間かぶりに顔を上げた。

「…ちっ、鬱陶しい…雨じゃ外で鍛練も出来ねぇじゃねーか」
「あー、ならユウも本読んだらどうさ? これなんか日本語のだぜ」
「あ…? んなとこで何やってんだアイツ」
「へ? 何なに、」

無視なんていつものことなので気にしない。読んでいた本を閉じ机に置いて、寝っ転がっていたソファから足をぐんと振って起き上がる。ぼんやりと窓の外を眺めるユウの頭上から、手で軽く曇ったそこを拭いて、額をくっ付けて下を覗き込む。激しさを失わない豪雨のせいで見えづらいが、傘もささずにその体を雨に晒す少女がそこには居て。

「…ヒロイン…!?」

あんなに髪の長い少女、今任務中のリナリーの他には一人しかいなかったはず。俺は直ぐ様踵を返し、ソファに掛けていたハンドタオルをひっ掴むと談話室を飛び出した。追い掛けてきた俺の名を呼ぶユウの声も、耳には届かなかった。








「ヒロイン!」

バシャッ、深く溜まった水を蹴りながら、俺は一人ぽつんと佇むヒロインの背中に向かって大声を上げた。彼女の動作は酷く遅くて、振り向く前に手が届くところまで行き着いてしまったから、待ちきれなかった俺はその小さな体を強引に抱き上げ教団内へと全速力で駆け戻った。

「…っの、馬鹿! ずぶ濡れさ、風邪ひくだろ!? 何考えてんさっんなとこで」
「…ラ…ビ」

言いたいことはいろいろあったが、触れた頬は冷たいと思っていたのに何故か焼けたように熱くて、予想外の温度差に俺ははっと息を止めた。濡れた髪にタオルを被せたその手を思わず止めると、腕の中の凍えた少女は、小さく俺の名を呟きながらぐにゃりと崩れ落ちた。








「風邪ですね」
「………」

ふうふうと苦しそうに呼吸をするヒロインを、俺は複雑な表情で見下ろした。林檎みたいに赤い頬っぺたが真っ先に目に入る。潤んだ丸い瞳は細まって、悲しそうに俺を見詰めている。

「三日安静にしていれば大分良くなるはずですからね」
「はあ、わざわざ悪かったさね」
「いいえー、お大事にしてください」

人の良さそうな笑顔を浮かべて、医療班の女性が部屋から出ていった。俺はベッドの脇に座り込んで、そっと髪を撫でてやる。

「何であんなことしたんさ」
「…ごめんなさい…」
「反省してんなら答えて。どうしてあんな馬鹿なことしたの?」

もともと水分多めだった目が、更にまたうるっと濡れて光った。あ、今の言い方はきつかったかなと、俺は語気を和らげながら再び優しく問い掛けるのに努める。

「あのなヒロイン、雨の日に外出てちゃこうなるって、ヒロインは賢いから解るよな? 俺はヒロインがすごーく大事だから、風邪なんてひいてほしくなかったんさ。だから、ね、どうして雨の中傘もささずにあそこにいたのか、教えてくれない?」

じいっと見上げ逸らされない瞳に、自分で笑っちまうくらい緩い微笑を浮かべた俺の顔が、まるで水鏡のごとく映されている様が伺えた。ぱちぱちと二、三度ほど瞬きをした後、ヒロインはその小さな唇を開く。

「おこらない…?」
「うん」

内容によるけどね、と心の中で付け足しながら、俺は素直に頷いた。それにいささかほっとしたような表情を見せて、ヒロインはあのね、と続けた。

「おかぜをひこうと、思ったの」
「……は?」

もっと特別な理由を想像してた俺は、全く予想外の、しかしよく考えれば灯台もと暗しであった答に面喰らった。そりゃあ、風邪をひくには一番手っ取り早い方法だろうし思惑通りになったんだろうけど…これは「怒らない」の対象外なのでは?

「…な、なんで?」
「だって、おかぜをひくとね、いっつもお仕事ばっかりのおかあさんが、ずぅっと一緒にいてくれたのよ」

教団に来て間もないヒロインに父親はおらず、母親が女手ひとつで彼女を育てていたのだと聞いたことはある。彼女は一日にいくつもの職場を回って生活費を稼いでいたであろう、だからヒロインはいつも家で一人ぼっちだったんだ。ああ、だから。また風邪をひけば、母親が看病しに来てくれると思ったのか。

「残念だけど、ヒロインが来てほしい人は、ここには来ないさ」
「どうして?」
「…教団に入団した瞬間からな、」
「来てくれたよ」
「、…へ?」

俺の言葉を遮って、ヒロインは何を言っているのだといわんばかりにきっぱりと言いはなった。シリアスな空気になることを覚悟していた俺は、拍子抜けして何とも間抜けな声を上げる。

「来てくれたよ、ラビが」
「え…お、俺?」
「うん」
「ヒロインは俺に来てほしかったんさ?」
「そう」

ふわりと目元を細めた後、けほ、と苦しそうな咳をひとつ。

「ラビ、任務ですぐお出かけしちゃうのに、ここにいてもご本ばっかり読んでるの」
「ヒロイン…」
「だから、おかぜひけばね、私とおはなししてくれるかなあって思って…」

長く喋って疲れたのかはふ、と息を吐いて、ヒロインはその長い睫毛を伏せた。俺は喉の奥から込み上げてくるようなその感情を堪えきれず、目の前にくったり横たわる少女をぎゅっと腕に抱き込んだ。

「…こんなやり方しか思いつかなくって、ごめんね」
「何…言ってんさ。寂しかったならいつでもそう言やいいの、いくらでも構ってあげるから」
「…さみしかった、よ、ラビ」
「ん…気付けなくって、ごめんな…」

きゅ、頭に手を添えて肩に額を押し付けさせれば、ヒロインは一拍遅れて俺の背中に腕を回してきた。短いそれが俺の背を回りきる訳もなく、シャツの両脇を握るだけに留まったが。

「…やっぱ熱いさ」
「うん…でもすぐ、なおるよ」

何を根拠にと思ったが、俺を心配かけさせることが今になって心苦しくなったのだろうなと考えると、それすらじいんと胸に響く。

「ヒロイン…このまま俺にうつして」
「え…?」
「ヒロインはまだ小さいから、免疫がないんさ。俺が貰ってすぐに治してやるから」
「だ、だめ、ラビが苦しいのやだよ」
「俺はヒロインが苦しい方がもっとヤなんさ」

覗き込んだ顔はとろんと眠たそうで、しかしそれが眠気ではなくウィルスがそうさせているのだと思うと、その大層可愛らしい顔も見るのが辛くなってくる。

「らび…」
「心配しなくていいさ。俺が風邪ひいて寝込んだら、ヒロインが付きっきりで看病してくれんでしょ?」

泣き出しそうな彼女の頭をよしよしと撫でると、ヒロインは少し嬉しそうに頷いて口元を緩めた。やっぱりまだまだ子供だなあなんて、面と向かって言ったら怒られるだろうけど、やはりそんないとおしさが募って仕方ない。食べちゃいたいくらい可愛いって、きっとこの事なんだろうなあ。

「ラビ、大すき」
「俺も大好きさヒロイン。…そろそろ休もう、体に障るから」

長い間抱きすくめていたヒロインの体をベッドに戻し、熱を持った頬に手のひらを滑らせると、その手に同じく熱い小さな手が重なった。

「…眠るまでで、いい、から」
答える代わりにその手を握り返すと、ヒロインは穏やかに微笑んだ後ゆっくりと目を閉じた。俺はそれを見届けると、繋いでいない方の手で頬杖をついて、ほのぼのと彼女を見詰めた。

ヒロインが起きたらジェリーに美味しい卵粥を作ってもらおう。今日くらい彼女のためだけに時間を使ったって、バチは当たらねぇよな。


//20080628