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「……誰?」


びく。手に握りこんだ時計のチェーンが微かに鳴った。口を閉ざしたまま耳をすませていると、扉越し、ゆっくりと近付く靴の音が聞こえてくる。ああ、しまった。何も言わずにすぐ下へ降りようと思っていたのに。


「よく気付いたね」
「!」


ぴたりと音が止み、動揺した声が私の名を呼ぶ。驚きを隠さない声色に、私は苦笑いを零した。


「これから任務なの。12時に出発だって」
「…あと、10分。10分しかないじゃないですか」
「うん、だから、ここに来た」


かちり。かちり。懐中時計の中の止まらない秒針を眺めながら、冷たい扉に背中を凭れて淡々と言う。意味を図りかねているのか、アレンはじっと黙っている。


数秒互いに沈黙してから、それを破ったのは扉越しの彼の声。囁くような低いそれは、もうすぐ近くにあるようだ。


「…折角来たのに、ノックもせずに。顔はあわせないつもりだった?」
「そうね。顔を見たら、ずっとここにいたくなってしまうから」
「でも僕は、声だけなんて、」


ガチャリと音を立ててノブが回る。反射的に一歩扉から離れると、中から伸びてきた腕に捕えられた。冷え切った私の体が抱きしめられる。人間らしい熱。人間らしい感触。


「―――こんなに近くにいるのに」


言葉になり損なった吐息のようなそれが、耳に触れるのと同時に跳ねる心臓。我慢出来ないよ、と。それは私も同じなんだ。
私は震える指で、アレンの腕にそっと触れた。応えるように、ぎゅっと強く引き寄せられる。


「日が変わる時に僕の腕から抜け出してしまうなんて。まるでシンデレラですね」
「じゃあ、アレンは王子様?」
「あなたが思うなら、そうでしょう」


くす、と耳元で笑う気配。手中の時計は私を早く早くと急かしていたけれど、私の全身がそれを拒んでいる。


「…僕も一緒に行けたらなぁ」
「…あなたは早朝に、任務、」
「よく知ってるね?」
「こ…コムイさんが行ってたの」
「任務がなくても、行かせてはくれないでしょうけど」


遊びに行くのではないのだ。命を掛けた大仕事。世界を汚さない為の、私たちは選ばれし聖者。早く。早く。秒針は無情にも12時に向かって足を速めたようだった。


「…行くわ、アレン」
「うん」
「次会えるのはいつかしら」
「さあ。でも、きっと」
「そう、…だね」


解放された体は小さくて、背負うものの大きさに簡単に潰れてしまいそうだ。けれど少女は足を止めない。守りたいものを守るために。
さよならもまたねもなかった。ただ一言、おやすみなさいを呟いて、私は暗い廊下をひた走った。廊下の寒気も忘れて、それを見送る少年は思う。靴の音が遠ざかっていく。カチ、と何とも小さな音を合図に、世界がまたリセットされる。


「…行っておいで、シンデレラ」


次は、僕が行こう。





//20100323