log | ナノ

少し触れるだけでも崩れそうな書類の山の中で派手にいびきを掻くコムイさんに、僕はずいずいと近付いて晒された耳元に唇を寄せ、極小さな声で囁いてみる。

「…リナリーが結婚しちゃいますよ」
「リナリィィィ! お兄ちゃんに黙って結婚なんて酷いよおぉぉーっ!」

泣き声と共に跳び起きたコムイさんを苦笑混じりに眺める。ハッと、今ようやく目が覚めたようにコムイさんは僕を振り返った。

「あ、アレン君。何か用かい?」
「…はあ…これくらい簡単だといいんですけどね…」
「へ?」

きょとんとコムイさんは僕を数秒見詰めると、ようやく僕が背負っている「モノ」に気付く。たちまち目を見開いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。僕の背にある小さな温もりは、同じ任務に就いていたヒロインのものだった。

「なっ…ヒロイン、ちゃん…?」
「はい」
「どど、どうして? 何かあったのかい、ヒロインちゃん」
「…僕のミスなんです。ちゃんと守ってあげられなかったから…」

いくら片想いと言えど、大事な女の子一人守れないなんて…と僕が感傷に浸っているその傍らで、コムイさんは完全にパニック状態だ。

「みみみミス!? ヒロインちゃんはどうしたの!? すぐ医療班に連絡…いやそれより緊急手術…」
「お、落ち着いて下さいコムイさん! 眠ってるだけですから!」

緊急手術と聞いた途端背中に嫌な汗が伝ったのが解った。教団に居る団員全てが恐らく自分と同じ反応を示すだろう。

「…詳しく話してもらおうか?」
「…はい」

さっきまでの表情とは一転、コムイさんの眼鏡の奥の目に鋭い光が帯びる。僕も背筋を伸ばし背負っていたヒロインをそっとソファーに下ろす。と同時に、どっと息を吐いた。ヒロインは軽く小さい為に疲れた訳では無いのだが、ただ、穏やかな寝息が耳にかかっていたたまれなくなっていたのだ。好きな娘が耳元で無防備な寝息をたてていたら…男なら、誰だって「そういう」気分になってしまうだろう。僕もどさりとヒロインの隣に腰掛け、コムイさんと向かい合った。

「話せば長くなりますが」
「うん、二人が行った任務はレベル2のアクマ退治だったね?」
「はい。そこで……」












―――どぉん…っ

その場に大きな爆発音が響いたのは、2体のアクマにヒロインとそれぞれ交戦を始めてから約30分程後の事。疲労に揺れる体を、岩のようなものの上にどさりと投げる。ふうと一つ溜息をつき、ヒロインが居るであろう方向を見る。先程同じような爆発音が響いたから、そろそろ終わるだろう。事実、遥か遠くにある影は、細身の女性が巨大な機械の塊へ急接近して……

キイィィィィ―――ッ!

「っ…!?」

突然響いた不快な機械音。咄嗟に両耳を強く塞ぎ、目を細めて音源を辿る。それは明らかに、ヒロインとアクマが対峙していた場所だ。

「ヒロイン!」

素早く立ち上がって地を蹴り、彼女のもとへと向かう。ぐんぐんと近付いていく度に、危なっかしく揺れる彼女の像がはっきりしてきて。

「…っぶな!」

ぐらっと崩れたヒロインを、ぎりぎりで受け止めた。ばっと上へ飛びのき、不快音を発したアクマの攻撃をかわす。アクマは悔しそうに僕とヒロインを見上げた。

「ちっ…あと少しだったのに、邪魔入ったわ」
「…音波系のアクマですね」
「そうよ。あんたは離れてたから平気でしょうけど、そこの女の子はどうでしょうね」

嘲るような笑みを浮かべるアクマ。ヒロインを抱えたまま、目にも留まらぬ速さで、アクマに真っ直ぐ左腕を振り下ろす。大分ヒロインがダメージを与えてくれたらしく、ひびを入れるのに苦労はしなかった。

「…ズ…いぶン短気…ネ…」
「…ヒロインに何したんですか」
「フフ…大丈夫よ、眠らセた…だケ…」

アクマから小さく煙が上がる。どうやらヒロインを眠らせて、とどめを刺す気だったらしい。

「強イ催眠をカけ…タから…ちょットやソっとじゃ起キなイワ…」

…随分とお喋りなアクマだな。僕は目の前の機械を見据え、眠るヒロインをぎゅうと抱き締めた。その様子を、アクマは目敏く見詰める。

「幸…セな女…私も…愛サれタカった…」

消え入るような、ノイズの混ざった声。鎖に拘束されていたその女の魂が、静かに涙を流したのを見た。同時に、アクマはごうと炎上する。崩れた鎖の中に、もう魂は確認出来なかった。愛を望んだ、哀しい女性の魂。僕はその炎に向かい合い暫し目を伏せてから、ヒロインを見下ろした。

「……ヒロイン」

腕の中の小さな体は、確かに温かい。息も、鼓動も、脈もある。一先ず安心するも、彼女が起きる気配はなくて…丁重に教団まで運び、医療班のもとへ連れていった。












「…それで?」
「それで…って」

苦笑してコムイさんを見る。起こすどころか目覚めない原因すら掴めなくて、教団一の秀才なら何か解るかとここに来たというのに。

「…ふうん…解ったよ」
「!」

ぱあっと、顔を輝かせる。すごいなコムイさん、ヒロインの起こし方、知って…

「アレン君が相当お馬鹿さんって事が」

……その巻き毛、力いっぱい引っ張ってやってもいいだろうか。…うん、いいだろう。勝手に自己完結して、コムイさんに手を伸ばす。

「そんなの簡単じゃないか」

ぴたり、と僕の伸ばしかけた腕が硬直する。そしてそれは、体中にみるみる感染する。

「―――…え? かんた…ぇえッ?」
「アレン君は、白雪姫だとか眠れる森の美女だとか…そんな話を知っているだろう?」
「…はあ」

有名な童話だ。師匠の元で修業していた時は全く無縁だったそれも、教団に入った時に書庫で読んだことがある。

「さあ、よく思い出して」

コムイさんが僕の眉間に、すらっとした人差し指を当てる。まるで催眠術をかけられているようだ。

「姫は…どうやって、目覚めた?」
「…どうやって…?」

あやふやな記憶を悶々と辿る。魔女に毒リンゴを与えられた白雪姫は、妖精によって長い眠りにつかされたオーロラ姫は、…王子の口付けにより、目覚め、た。

「! まっ、まさか…」

面白そうに首を傾げて笑うコムイさんとは対照的に、僕の顔はみるみる赤に染まる。

「き、キス…っ!? ヒロインとはそんな関係じゃ」
「緊急事態なんだよ、アレン君。Mouth to Mouthとさほど変わらないさ」

そんなことをあっけらかんと言うコムイさん。その目は、確実に面白がっている。確かにそうかもしれないけど…いや、はたして本当にそうだろうか? なんだかこんがらがってきた。とりあえずそれをやろうがやるまいが、安全地帯へ連れていくか。僕は無言で、華奢なヒロインを抱え上げた。

「おや、どこへ行くんだい?」
「僕の部屋ですよ」
「…そんな人目の無い二人っきりの密室で何す…」

左手をゆらりと、肩の高さまで上げる。

「…イノセンス発「行ってらっしゃ〜い!」












―――ばさっ…

真っ白なシーツの海にヒロインを横たえ、僕も隣に腰を下ろす。

「…ヒロイン…」

自分の声に、心臓が跳ねる。驚く程切なく響いた声は、僕の胸を強く揺さ振った。このような状況になるには、ヒロインへの思いがあまりに強過ぎた。

「……っ」

この唇を開いたら。再びヒロインの名を口にしたら、止まらなくなってしまいそうで、堪らなく恐ろしい。それなのに。それなのに、この目が止まるのは、白い肌に薔薇色の頬、伏せた長い睫毛。僅かに開いた、透き通るような桃色の…

「…くそ…」

君の全てが、好きで好きで。その柔らかい頬に手を添えて、小さく唇を重ねた。

「…っん…」

掠めたようなキスだった。せめてもの、僕に残った理性がそうさせた。

「………」
「………?」

ヒロイン? 呼び掛けても、返事が無い。それでも全く動かなかった彼女が、唇を合わせた直後に身じろいだのだ。キスで目覚めるというのは本当のようだが…

「…まったく、」

神様は皮肉なものだな。

―――ちゅ…

掠める程度じゃ、今度は済ませない。長く唇を繋いで、無意識にヒロインを抱き寄せた。

「っ…ん、ぁ」
「…は…」

あ、まずい、調子乗った。苦しげに呻くヒロインから、そっと唇を離す。ヒロインの熱い息が濡れた唇にかかり、また熱を持ってしまいそうだ。見れば、いつのまに目覚めた彼女の顔は先程より上気して、瞳も潤んで涙が溢れそう。苦しそうに呼吸を整えるヒロインは、まだ覚醒しきっていないらしく、ぼんやりと僕を見詰めるばかり。僕は安堵のため息を吐いた。

「…良かった。おはようございます、ヒロイン」
「え…? あ、たし……」

混乱して部屋を見回すヒロインが、堪らなく愛しい。僕は思わず顔を緩ませて、その小さな体を力強く抱き込むと。

「っわ…アレンくん…?」
「ねぇ、ヒロイン…」

好きの、一秒前。


上手な姫の起こし方/20070620