log | ナノ

手に触れただけでびくついて、顔を赤くし俯いてしまう彼女を堪らなく可愛く思う反面、そのあまりのウブさに焦れったくなることがある。口説いて口説いて口説いて、押し迫るようにして漸くキスを交わせても、それから何日かは照れて目を合わせてもくれなくて。白々しい程純粋で、でもほんとに何もかも僕が初めてなんだと知ったときの快感といったらなかった。僕が言うのもあれだけど、妙に男慣れした女の子だったら、そもそも彼女を好きになっていなかったかもしれないんだ。

何をするにも要領が良くて、おろおろするばかりの私の手を優しく引いてくれる彼には、嬉しさ半分、情けなさ半分。あんなにかっこいい彼だから、無理もなく今までに何人もの女の人と付き合ってきたんだと思うし、それに対して拗ねたり言及したりなんてもっての他だ。けれど、本当に私でいいのかななんて彼に遠慮したくなるときも、女性の扱いに慣れきったところを見せ付けられて落ち込むときも、皆無とは言い切れない。右も左も解らない私はまだ、彼の望むこと全てを受け入れられる程器用ではなかった。


「ねえ、」

とん、と後ろから肩を叩いて、振り向き様に間髪入れずその唇を食むと、まるで火に掛けたように頬を熱くさせて、アレンくんっ、と上擦りくぐもった声で彼女は僕を呼んだ。満足げに笑って顔を離し、「キスしたかっただけ」と悪戯に囁いたら、喉元で何か呻いて顔を手で隠してしまった。僕は込み上げる笑いを堪えきれない。

「あは…光栄ですね。そんな大袈裟な反応してくれなくてもいいのに」
「だだだだってアレン君が…っう、後ろ向いたら顔、すご、近っ…!」

回らない口で、自分がどれほどまともな反応をしているかを必死に伝えようとしてる彼女がおかしくって仕方なかった。ほんと何だろ、こんな可愛い人見たことない。僕しか男を知らない君。口付けただけで真っ赤になってしまう君。これ以上のことをしたら、一体どうなってしまうんだろうか?

―――見てみたい、な。


私たち、一日に何回、キス、してるんだろう。自分の唇をなぞりながら、目を閉じて記憶を手繰る。食堂で、談話室で、廊下で、そして僅か数時間前。仕掛けてきたのは全て彼だ。そんなのがここ最近、昨日も、一昨日も――― 今私は、方舟の中の階段を上っていた。ピアノが置かれているという、14番目のその部屋に、呼ばれたのだ。彼に。私はそこに入ったことがなかったけれど、悪くはないところだと彼は言っていた。談話室でチェスでも、と持ち掛けられたことはあったが、方舟に呼ばれるなんて、何か意図があるのだろうか?


( ――――― )

ぴくりと私は立ち止まった。息を殺して耳をそばだてると、やっぱりだ、音がする。ピアノの、旋律。導かれるように足を滑らせ、辿り着いた扉をそっと開くとそこに在ったのは、目が眩むような真っ白の世界だ。壁も床も天井も、置かれたソファも、グランドピアノも、それを弾く少年、も。


( And boy got to sleep――― )

溶けた氷から滴る雫のように、その優しい音と声はひとつずつ、私の中に染み込んできた。滅多に聞かない、否、初めて聴くかもしれないアレンの歌が、私の頭を満たしていた動揺を融かしていく。届く音をひとつずつ拾い上げるようにするうち、私は聴覚以外の感覚を失っていった。


「―――大丈夫?」

ひらひらっと顔の前で手を振ってみたら、漸く彼女が反応してくれた。僕が鍵盤から手を離してもまるで人形のように動かなくて、ドア口で眠ったようだった君は、僕を大層驚かせた。いつの間にそこにいたのだろうと考えながら立ち上がり、近付いて、声を掛けたらそこでやっとこちらに意識を戻したみたいだった。

「…綺麗だっ、た」
「ありがとう」

思い出したようにぽつりと呟いた唇を、僕は少し微笑んで塞いだ。途端大きく見開く瞳。早く慣れてもらうためにこうしてしつこく口付けを繰り返しているのに、まだまだ先は長いようだ。

「相変わらずですねぇ…」
「っ、」

自分の口を手で覆ってしまう彼女を部屋に招き入れて、ソファに座るように促すと、僕は一度ピアノへ向かって、ポン、とひとつ鍵盤を叩いた。

「疑われる代わりに、これくらいの得くらいはないとね」
「? 何…」

はっと後ろを振り返った彼女の瞳に、今の今まで在ったはずの扉は映らなかっただろう。僕はにっこり笑って、引っ付くように隣に腰掛けた。

「この方舟は、僕が望んだようになるんですよ。出入口がなくなったこの部屋は、僕とあなただけを残して世界から切り取られたって訳で」

つまり、他人は完全排除された、まさしく二人っきりの空間ってこと。後でリンクにいくら咎め立てられようと、今は入ってはこれないんだ。囁けば、彼女は顔をりんごのようにして僕を見つめ返した。僕はまたもや驚く。こうしてまっすぐ僕と視線を絡めてくるなんて進歩だ。何となく嬉しくなってしまって、僕はその柔らかい体を抱き締めた。

「僕が何を言いたいか解る?」
「っ…?」
「絶対に人目がないところで、君としたいことが、あるんです」
「…わたしと…?」

ちゅ、と耳朶に口付けただけで、彼女は可愛らしい悲鳴を上げて体をびくつかせる。キス以上のことなんて到底考えつきもしないんだろうけど、君が気付いて、尚且つ心の準備が出来るまでずっとおあずけなんて、健全男子の僕には無理だ。

「ねぇ。最後まで言わせる気?」
「わっ、わたし、解らないっ…」
「解らないなら、教えてあげる」

嫌だったら噛んでくださいと言って、重ねた口は、受け入れられる。初めて絡めた舌は、ケーキに乗るような砂糖菓子の比でなく甘い。怖がるように震え引っ込むそれを優しく舐めて、大丈夫、と宥めて、そうしてやっと顔を離した頃には、もう君はとろとろだった。何にも知らないと言う割に、天性なのだろうが、そのあんまりな色香にあてられた僕は、後戻り出来ない事実と、それをしなくて良い歓喜に胸を踊らせた。息の荒い彼女の熱い頬に手を滑らせ、いいですか、って今更ながらも殊更優しく囁いたら、ほんとにほんとに小さく、まだよく解っていないような様子で、うん…って、頷いた。ああ、もう。そんな顔されたら止まらない。こちらのペースに巻き込んでいるはずなのに、いつか彼女にそれを崩されてしまいそう。


恋愛第二世界

その時私は、これから何が始まろうとしているのか、まるで理解していなかった。ただ、彼と共にならば何が起こってもいいと思っていた。触れてくる愛しい人の指先はいつもと何だか違う気がして、けれど目の前の彼があんまり幸せそうに笑うから、何もかも許したくなってしまったんだ。

//20081116
姉さんの一周年記念に愛を込めて。