log | ナノ

先程までの激闘の面影はもう何処にもない。忙しく音を伝え震えていた空気はただ穏やかに流れて、今は崩れた瓦礫と転がる亡骸と残骸と、私の血濡れた手を静かに、慰めるように撫でていた。咽がからからに渇いて、唾液を飲み下す事すらもどかしい。あれほどの激動をしたのに私は息ひとつ上がることなく、もうすっかり見慣れてしまった残酷な風景を見下した。赤と黒の世界。明かりは星ひとつ無い空に浮かぶおぼろ月だけ。ぱたりと、指先から鮮やかな赤が音もなく滴って地に落ちた。アクマの中に流れていたオイルと、ここの村人たちの体内に通っていたもの、だ。ほんの数分前までにはまだ、呼吸し、鼓動し、生命を宿していたそれが、今はぴくりとも動かず私の目の前に横たわっている。寒くもないのに腕が震えだし、まるで自分が死んでいくように体温が下がるのを感じた。
ざり、と砂を踏みつける音を背中で聞く。どくん、と心臓がひとつ大きく脈打つのを感じて、自らが生きている事を証明するそれに心底嫌悪した。振り返る気にはなれなかった。そこに誰が居るか知っているからこそ、今は関わりたくなかった。彼は何も言わないままゆっくりとゆっくりと近付いて来て、私の左隣で足を止めた。私が見ているのと同じ景色が、君の瞳には映っているんだろう。酷いでしょう?醜いでしょう?哀しいでしょう?全部全部全部、私がこの手でやったのよ。あなたが言うようにアクマを壊して魂を救ったとしても、それに劣らない程のたくさんの命を、私は助ける事が出来なかったよ。冷えきった私の手に、同じくらい冷たい彼のそれがそっと触れた。虚無とか、後悔とか、今私が抱いている感情全てを彼も別の場所で感じていたんだろうなあとぼんやり思って、ひどく悲しかった。

「これ以上辛い事、これからいくらでもあるんですよ」

解ってる、と言おうとしたけど、唇はそれを拒むように動こうとはしなかった。代わりに溢れ出した涙が、ひたひたと空っぽの私を満たしていく。エクソシストになるってこういうことだ。聖職者になるってこういうことだ。仕方が無かった。仕様が無かった。ぎゅ、と握られた彼の手も、血に濡れていることに今になって気付く。神様は理不尽だなぁ。皆が幸せになれる世界を、どうして作ってくれなかったんだろう。辛いのかとか解らないけど、今はただ苦しくて。一回り大きな手に包まれた自分の手が再びかたかたと震えだすのを抑えようとして、私は指の一本ずつに少しずつ力を込めた。

「きっと私、すぐ壊れるわ」

掠れた声で呟いたら、硬くてごつごつとした神様の左手が私の頬に触れて、流れ続けていた雫を受け止める。怖いくらい優しいそれが私の脆い心を揺さぶるから、余計に涙が止まらなくなった。せめて嗚咽など洩らさないように、咽で絡まっていた熱い息を解いて、長く時間をかけ全て吐き出す。

「壊させないよ」

じんと静かな、押さえ付けたような声が響く。

「僕が貴女を、壊させない」

私はその時初めて、彼の顔を見た。頼りなさげに光る、震える睫毛がとても綺麗だと思う。ねえ、貴方も泣いているんじゃない、アレン。


愁涙


光の届かない深海の奥底みたいに、辺りは音ひとつ無く静かだった。彼のイノセンスに掌で触れる。この手は今までに、幾つのアクマを切り裂いてきたんだろう。その度に君はどんな気持ちだったのかな。考えても考えても答は出ないんだけれど、あなたの事を想うとどうも、悲しくて涙が止まらないのです。

//20080923
企画「追悼」様に愛を込めて