log | ナノ


「…あ、はは…生きてた…」

固く冷たい地面に背中を押し付けると、美しい銀色の満月がよく見えた。土と血と雨の匂いが混じる。過酷な任務だった。レベル3がひしめく、方舟のゲートも繋がらない未知の地帯でのイノセンス回収、探索部隊も同行人もつかないまさしく決死の任務。しかし私はここで呼吸をしていて、手の中にはイノセンスがある。生きてる。生きてる。嬉しいというよりは信じられなくて、涙よりも笑いが出てきた。
降り注ぐ雨はもう秋だからか冷たかった。右足に負った傷に滲みる。痛いけど、息が詰まるほど痛いけど、これが生きてるってことだよなあって思ったら凄くほっとした。しかしこれでは本当に死んでしまうから、ほとんど動かない足を酷使して立ち上がり、近くの宿まで辿り着くと私は意識を手離した。




翌々日の早朝。事前にゴーレムで本部に連絡を入れていた私は、極力早い時間の汽車に乗って教団に還った。もう二度と目にすることは出来ないと覚悟したその風景は、見た目に似合わず温かく思え、静まり返ったホームを今までにないほど愛しく感じた。

「かえって、…きた」

船から降りて水路に足を置く。死を覚悟してここを出たのに、右足を負傷しただけで戻ってこられたんだ。手のひらを当てた無機質な灰色の壁はひんやりと冷たいけれど、現地で感じた冷たさとはまるで違うように思えた。


こ つ  ん

はっと驚いて音のした方を向くと、そこに立っていたのは白い髪の少年だった。信じられないとでも言いたげな顔をしていて、唇は呼び掛けるように私の名の形に動いたけれど、音にはならなかった。

「…ア…レンくん…?」

名前を呟いたら、彼は目が覚めたようにはっとして、そう長くない距離を駆けて私に近付くとそのまま抱きすくめた。胸が潰れてしまうかと思うくらいにそれは強い抱擁だったが、私は痛いも苦しいも言わず、ただ彼の広い背に腕を回す。

「…どうして…?こんな、朝早く…」
「安心して寝てなんていられますか…昨日の夜からずっといましたよ、ここに」
「きっ」

昨日の夜。なるほどだから、君の体はこんなに冷たいんだね。こんな寒々しい水路にひとり座り込んで、ただ私が帰るのを待っててくれたと言うの…?

「…ご、め…んね…」
「許さない。どうして僕に何も言わずに、」
「だっ…だって…っ」

アレンはそのとき別の任務だった。わざわざさよならを伝えたくなかったし、彼の声を聞いてしまえば死が怖くなってしまうと思った。だから私は、あなたを捨てる覚悟をした。したはずなのに、アクマと対峙するとき脳裏に過ったのは、全てあなたの顔だったよ、アレン。
喉が熱くなって、伝えたいのに伝わらない。必死に息を吐いて落ち着けようとしていたら彼はそれを汲んでくれたようで、「…もう、いいよ」と消え入るように囁いた。ぐ、と顔を上向かせられる。

「100秒キスするのと100回キスするの、どっちがいいですか」

心なしか震えた涙声で、アレンは腕の力を緩めないままそう呟く。思わず零れた涙が頬に触れた彼の手を濡らす。私は彼と絡まった視線の糸を、固く瞼を閉ざすことで断ち切った。

「…どっちもがいいなあ…」

自分がアレンよりもずっと情けない声だったことに驚く。だが寧ろ、ひきつる喉が言葉を紡げただけでも及第点とすべきかもしれない。胸がいっぱいで、彼を抱き締めること以外のどんな行為も無意味なように感じる。
私が望んだ通り、アレンは数え切れない程の口付けをくれた。奪う、与える、苛む、慈しむ、乞う、許す。例えるならそんなキスだと思った。深く浅く、短く長く。何かを確かめるように、私たちは夢中で口付けを受けては返す。溢れ続ける涙を止めることなど、とっくの昔に諦めてしまった。

「い…やだ、」

泣き縋るそれはまるで子供。噛み付くような接吻をまたひとつ施してから、アレンは喘ぐように言った。

「君は、失いたくない」

とてもとても悲しかった。胸が張り裂けないのが不思議だった。きっとそれは起こり得ない奇跡で、私たちが共用出来る時間も、ほんの束の間程のものなんだろうけど。

「お帰りなさい…っ」

私が生きるとあなたは笑うから、幸せそうにあなたは笑うから、その時間が一秒でも伸びたことに、神様に感謝をせずにはいられないんだ。

解除コード

私は、私は、今ここに、

20080908
戦士といってもやはりまだ子供なふたり