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神さま、神さま、お願いです。一生のお願いです。
どうか彼を、連れていくことをなさらないで下さい。


いくらそう願っても祈っても、痛い程無機質な白のベッドに沈んだ、彼の意識が戻ってくることはなかった。細い腕には幾本の管。切れた口元に当てられた人工呼吸器。体のあちこちに巻かれた包帯。助かる確率は、一桁という。

神さま、この人はあなたの子どもなのでしょう?あなたが理不尽な理由で戦争に引き込んだ、哀れな子どもなのでしょう?ふざけないで。このまま彼の命を取ると言うのなら、私はあなたを殺すことすら厭いません。
それが叶わないなら…、それなら私が代わるから。彼はこの世界に必要な人間です。彼は命尽きる前に、もっともっと多くの愛を知らなければならないのです。もっともっと愛されなければならないのです。だから神さま、あなたに、まだ彼は渡さない。

任務がない日は毎日のように私は彼のところへ来てベッドを涙に濡らしたけれど、婦長さんはいつも目を瞑っていてくれた。食欲なんて湧かないし、寝付きも悪くなった。ただ、固く手を組み合わせて、幾度となく月に祈るのが日課になった。それでも彼の瞳が開くようなことはなかったけれど。

一週間が経ち、二週間が経ち、一ヶ月が過ぎた。植物のようにただ呼吸だけを繰り返す彼に、私は酷く絶望していた。それでも受け入れられない私は、逝かないで、どうか、どうかと取り憑かれたように願いながら、今日も彼の手を握り締めていた。柔らかいベッドに埋もれる、血の気のない蒼白い顔、淡雪みたいに真っ白な髪。そのままふわりと掠れて消えていってしまいそうで、怖くて怖くて堪らなかった。

ねえ、私言ったじゃない、ちゃんと帰ってきてねって。私の前からいなくなったら許さないって。あなたはおかしそうに笑って、行ってきますって、言ったじゃない…。

ぎゅう、と力一杯手を握ると、彼のそれがほんの少しだけ震えた。どくん、と私の心臓が深く鼓動を刻んで、私は大きく目を見開いて顔を上げた。しかし広がるいつもの光景、人形のように眠る彼。気のせい、だったのかと、胸の中で膨らんだ風船が一瞬にしてばちんと弾けた。綺麗な顔についた小さな傷は、未だに癒えていない。放心しつつそれを見詰めていたら、今度は彼の長い睫毛が震えた気がした。今度は幻覚?ごしごしと目を擦ると、ひりついた目尻が少し痛む。潤む瞳でもう一度視線を落としたら、その瞼が、ゆっくりゆっくり開かれた。呼吸が 止まる 、

虚ろな瞳はぼんやりと天井を見詰めた後、焦点を目を開いたときと同じくらいの速度で私に移した。彼と確かに、目が合う。笑うみたいに細まる瞳。夢じゃない?私は思わず握っていた手を放し、自分の口を両手で覆った。じわじわと凍り付いた心に戻ってくる熱。溶かされた氷が涙に姿を変えて流れ出る。

「…な かないで、下さいよ…」

懐かしい、恋い焦がれた、掠れた声が余計に私の涙腺を決壊させる。ぱたぱたと増え続けるシーツの染み。

「あなたが帰って、こいって行ったから、戻っ…て 来たんです…から…」

震える指で温もりを取り戻した腕に触れて、胸に頬に、触れて、ぼろぼろ零れる涙を堪えるのも諦めて私は、声も出ないままベッドシーツの中に顔を埋めた。碌に手入れもしていなかった髪を、アレンの傷付いた指先がそっと撫でる。

「…目が、赤いね。もしかしてずっと、泣いてたんですか…?」
「…るさぃっ…ばかあれん…」

はは、と空に消えてしまいそうな、自傷的な笑い声が小さく上がる。

「なんで、怒ってるんです…ちゃんと言うこと、聞いたんだから、褒めてよ…?」

ゆうるりと手のひらで、髪の上から頬を撫でられる。瞳を固く閉じたまま顔を上げると、いたく優しいそれが、頬に伝う涙を拭った。いくら拭いたって涙は枯れることを知らず溢れてくるのに、それでもアレンは私を慰めることをやめない。次第に濡れそぼる真っ赤な手。私は少し瞼を上げて、その手に自分の手を重ねて制した。

「もっ…いい…」
「いやで、す」

アレンは右手で人工呼吸器を邪魔くさそうに取ると、触れていた私の手を弱々しく取って引き寄せて、乾いたその唇に押し当てた。

「だって僕は、こうするために、帰ってきたんだ」

「泣き虫なあなたの涙を拭うために、帰ってきたんです、」

はたはたと滴を受けて、シーツが音を立てる。私は泣き虫なんかじゃなかった。あなたが私をこんなに弱くしたんだ。だってほら、君にそんなこと言われただけで、また涙が止まらない。

ロマンスグレーの深海でぐるり、

もがくふたつの魚の螺旋

20080730
何があっても還ってくる、強い意志と精神に感銘を受けて