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夜の池袋という街を、迂闊にひとりで歩くものではない。この物騒なご時世、何が起こるかわかったもんじゃないのだ。



キャッチのお兄さんを当たり障りのない愛想笑いでかわし、目の回りが真っ黒な今時ルーズソックスのギャル集団を何となしに横目で見送ってから、私はくいと手首を傾げて時計を見た。いつもより早く上がれたなと、今日は晩御飯も家で食べられそうだと思った、ちょうどその瞬間だった。

「ッんむ!?」

背後から伸びてきた大きな手ががばと私の口を押さえ、悲鳴を上げる暇さえないうちに、あっという間に路地裏に引っ張り込まれた。OLがひとり突然姿を消したところで、人が多すぎるこの街は無反応で、そこに流れる空間が乱れることは決してないのである。

「ンーッ! ンンんーっんーっ!」
「しー…静かにして、ヒロイン」
「!!」

私の口を覆う手の上からもう片方の手の人差し指がすらりと立てられる。聞き覚えのある声が抵抗する私の耳元で囁いたので、私はびくりと暴れるのを止めた。私が大人しくなったのを確認したその人は、いい子だね、と笑ってまた囁きようやく私を解放した。

「い、臨也さん…」

怖ず怖ずと振り返ったそこには、うっすらと汗をかいた顔を手の甲でぐいと拭う臨也さんがいらした。私はどきどきともびくびくともつかず震える自分の胸に両手をあてて、壁にどんと背を預ける彼を見た。

「…何か、あったんですか?」
「ん? ああ、ちょっとシズちゃんに追われてね」

撒いたかな、と大通りをひょいと覗く、臨也さんの乱れた後ろ髪。触れたくなって手を持ち上げかけたけど思い止まった。一秒後に臨也さんが振り返ったから、私の判断は間違ってなかったと思った。私が慌ててぱっと手を引っ込めると、臨也さんは肩を微かに揺らしながら、ふ、と嬉しそうに笑う。

「捕まえたよ。三日ぶりだ、ヒロイン」
「えっ、い、臨也さ…」

ん。と私が言い切る前に、臨也さんの大きな手がくしゃっと私の髪を撫でた。美しく微笑んだ彼は、私の戸惑った顔を眺めて楽しげにまばたきしている。

「決まってるじゃない、わざわざ池袋に来る理由なんて、ね」

何も言っていなかったのに、臨也さんはお見通しだとばかりに、私が胸の中で呟いた疑問に答えてみせた。私に会う為にわざわざ、苦手な平和島さんがいる池袋に足を運んでくれたのだ。あの彼が。折原臨也さんが。何ということだろう。私はさっき取り落としていたバッグをやっと拾い上げることで、赤くなっていたかもしれない顔を隠した。早番で良かった。残業回避して本当に良かった。

「あー、走ったから疲れちゃった。シズちゃんしつっこいんだもんなー。ヒロイン、仕事は早かったんでしょ?」
「はい、今日は久しぶりの早ば…何故それを?」
「じゃ、ヒロインんとこ行こう。ふらふらしてたらいつまた見付かるか解んないし」

話を聞かない臨也さんは、私の手を取ってさっさと歩きだした。きっと情報屋クオリティなんだろうけど、社員の上がる時間なんて、完全に内部のプログラムなのに。格が違うのだ彼は、と私は今更驚いている自分に言い聞かせて、大人しく臨也さんに手を引かれた。
けれど、はたと気付いて足を止める。くん、と繋がった手が臨也さんを引き止めた。眉をしかめた臨也さんの顔がこちらを振り向くのと同時に、私は強張った表情でせき立てるように言った。

「だ、だめですっ、うちは」
「…なんで?」
「だって、あの…臨也さんが来るって知らなかったから片付けてないし…」
「見られて困るようなものがあるわけ?」
「いいいいいえ! そんなものはなにも」

ばたばたと首を横に振る私の様子を不機嫌に見詰めていた臨也さんは、やがてまた面白がるような薄ら笑いを浮かべて、突然顔を近付けた。ひい。私はつい身を固くする。

「ご飯食べたかな、ヒロイン」
「い、いえ、まだ…」
「そう。俺もまだなんだ。ヒロインの手料理が食べたいと思ってね」

にっこりと威圧的に笑う臨也さんに、私はもう何も言い返せなかった。家に来る気満々だこの人。多少散らかっているのには目をつぶってもらうとする。握ったままだった手を、今度は私が引っぱって歩きだした。

「あれ、どこ行くの?」
「二人分の食材はないので買いに行きます。この時間だから、大したものはないだろうけど」
「なあんだ。てっきりホテルルートかと思った」
「………」

じと。振り返って臨也さんを睨むと、へらへらとからかうような笑顔を向けられる。彼の冗談に振り回されて、今もまんまと顔が赤いことなんて自覚済みである。ぷいと何も言わずにそっぽを向いて歩くスピードを速めたら、可愛い、なんてくすくす笑う臨也さんが、繋いだ手のひらに力を込めたのを感じた。嬉しがっている自分が、なにより憎いのだった。


20100625
偽物すぎる臨也さんでした