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※ ダーク注意。


女の手から滑り落ちた銀の短剣が、カシン、と呆気のない音を夜の男部屋に響かせた。ランプの弱い明かりを受けて冷たく光るそれを、女が驚いたような瞳で見下ろしている。ギリリと手首を強く掴まれたせいで、女の指先からはほとんど感覚が消えていた。彼女の細腕を掴んだままの男、ゾロは、冷たい瞳で女、ヒロインの横顔をただ見ていた。ゆっくりと、自分の手を拘束する筋肉に覆われた太い腕を視線で辿ったヒロインは、それがゾロだと気付いた途端に、赤を引いた唇に引き攣った笑みを浮かべる。よく通るアルトの声が震えていた。

「あ…あら、てっきり寝入ってしまったものだと思っていたのに」
「怪しい女がうろついてる船内でうかうか眠れるかよ」

ゾロは冷たく言い捨てると、足元に落ちた短剣の柄を蹴り飛ばした。その銀色はくるくると回転しながら、いくつか並んだベッドの下へと滑り込んで二人の視界から消える。ようやく解放された手首をヒロインがもう片方の手でさっと庇った。くっきりと付いたゾロの指の跡を指でなぞって確認しながら、ヒロインはゾロから目を離さずに、動揺を隠しきれない口調で喋りだす。

「…2ヶ月も同じ船に乗っていたのに、少しも私を信用していなかったのですか?」
「ああ」
「船長さんは?」

ヒロインは逃げるように視線を斜め左にずらした。毛布をベッドから蹴り落とし、手足を大の字に広げ高いびきをかきながら、平和な顔で眠る少年がそこにいる。ゾロはヒロインと同じように彼を見下ろし、ニィと小さく笑った。

「こいつは信じてただろうな。人の疑い方を知らねェ奴だ。だから真っ先に標的にしたんだろ?なァ?海軍さんよ」
「……そこまで解っていらしたの?まあ、不覚でした」

深くため息をついたヒロインは、頭痛を覚えたように額を押さえる。諦めたようなその仕種に、ゾロはすっと眉を潜めた。
ふた月前にサニー号へ「新しい仲間」として乗り込んできたこの女が、海軍のスパイであるということを突き止めたのはそう昔の話でもない。謎ばかりで、それを完璧に隠しているらしかった彼女の正体を暴けたのは、ゾロからしても単なる偶然だった。とうとう本性を見せたヒロインに気付き、すぐさまその犯行を阻止出来たのも、ラッキーだったとしか言いようがない。こちらがその行動を読むのに苦労したほど、彼女は頭がよく、かなり注意深く動いていたと思う。ただ少しばかり、運がなかった。

「それでゾロさん、私をどうしますか?捕まったと知られたら上層が怒るなあ。ルフィさんに言いますか、私があなたを殺そうとしたって。それとも今ここで、私、あなたに殺されてしまうかしら?」

まるで財布を落としてしまったとでも言うような口ぶりで饒舌に語るヒロインだったが、その顔は酷く青ざめて、語尾は震え、強がっているのが見え見えだ。ゾロはにやりと猟奇的に口元を歪め、目の前のウサギに殊更ゆったりと言い聞かせる。

「女を斬る趣味はねェ。が、その細ェ首をへし折るのくらいおれにとっちゃあ朝飯前だ」
「………」

さっと恐怖の色を濃くした瞳に背中がぞくぞくと粟立つ。可愛い女だ。心を木っ端微塵に壊してやりたい。おれは女の顎に手をかけ、親指でてらてらとした唇の紅を乱暴に拭うと、噛み付くように口づけた。驚きと苦しさに呻くヒロインの体を押さえ付け、薄いシャツの隙間に手を滑り込ませると、彼女の平たく滑らかな腹を撫でた。大袈裟なまでに跳ねる華奢な体。噛まれるかと思ったが杞憂であった。彼女の頭は良くも悪くも、大変利口に出来ているらしい。

「ッは…はあっ…ア…」

捩込んだ舌で絡めとった呼吸。酸素を求めた唇は開き、迎え入れたのは期待に反して荒い接吻である。たちまち潤む大きな黒目は、彼女の意思ではないにしても、愛玩してやろうと思うほどには扇情的だった。

「…ふっ…ぅ…」

くた、と脱力した体を片手で受け止める。女スパイのくせに、この手の経験はないように見て取れる。少しばかり深い口づけをしただけでこうもなるだろうか。まあ良い、こちらにとって都合が悪い訳ではないのだから。顎を掴まえて上を向かせると、反った喉がこくりと上下した。

「殺しはしない。報告もしない。ただし、こっちの要求を飲むって言うならな」

指でヒロインの晒された鎖骨を舐めるように撫で付けると、怯えるような小さな震えが返って来る。言いたいことは分かっているはずだ。何の抵抗もしてこないということはつまり、交渉成立。

「お前は24時間おれの側に置いて監視する。下手に動くようなら容赦はしねェ」
「………」
「恨むなら自分の不運を恨め。命が惜しけりゃ精々堪えるんだな」

手の平を滑らせた彼女の胸元が激しく脈打っている。泣き出しそうに歪んだ愛らしい顔が酷く赤かった。堕ちてこいよ。知らず凶悪な笑みを浮かべる自分の口元。さっさとこの腕ン中堕ちてこい。どうせ余生全てをおれに縛られるなら、それが彼女に残された一番マシな道だろうよ。

再び荒々しく唇を重ねたふたつの影を、今にも消えそうなランプの光が黙って見下ろしていた。


アンイリアス/20100607
トロイの木馬失敗例