log | ナノ

※ 学パロ


からからすたん。レールの上で窓をスライドさせると、ひゅう、となかなか心地の好い風が教室に吹き込んできた。乱れた髪を掻き上げてそこにしゃがみ込み、溜息のような音を唇から洩らす。丸めた背中を壁に凭せ掛け、ぎゅっと目を閉じる。誰もいない北校舎4階の美術室、現在軽音部部室。古いキャンバスが教室の隅で埃を被っていて、薄汚れた石膏のベートーベンは来月まで原形を留め続けられるのかも怪しい。白いカーディガンに片手を入れて、ミュージックプレイヤーの角を親指でそっとなぜた。耳に突っ込んだビビッドピンクのイヤホンで何の音楽を聴いているという訳でもない。音を出さないそれは今や、私と世界を区切る耳栓の役目を買っているだけだった。
春にしては少し冷たい風が置き去られた譜面をぱたぱたと捲る気配。ドアが開く音には、気付かないフリをする。

「…こんなところでお昼寝さ? 帰宅部エース」

殊更優雅に瞼を上げて見れば、スクールバッグを椅子のひとつに投げるように降ろす赤毛が、そこにいた。肩にギターケースを担いでいる。イヤホンを左耳から引き抜いて言った。

「ひさしぶりにラビのギターが聴きたくなって」
「それで今まで待ってたって? ホームルーム終わってもう一時間は経ったんじゃねぇの」
「ほんとよ、ラビ、遅いんだもの。そんな頭だから頭検居残り常習犯なんだわ」
「…元からなんだっての、仕方ねえさ」

ピック貸して、と伸ばされた左手に、薄っぺらいプラスチックの三角形を投げてやる。器用に受けとったラビは取り出したギターに視線を落とし、片手でチューニングしながら、ヘアゴムに歯を引っ掛けて右手首から外した。チェックスカートのプリーツを直しながら、私は見慣れたその光景をぼんやりと見詰める。懐かしい。落ち着く。堪らなく好き。何がって、さあね、何がかしら。

「聴かせてくれるの」
「聴いたら帰る?」
「うん」
「じゃあ弾かねー」
「うそよ、冗談。しばらくここにいたい気分だもん」

ごつ、と壁に頭を寄せると、そ、とラビは素っ気なく答えて、去年の文化祭で披露したオリジナルのバラードを弾きはじめた。私はまた目を閉じる。懐かしい。キュ、キュ、と弦が小さく鳴く度に、愛おしい気持ちになった。ああ、私はまだちゃんとこの音が好きね、って確認して、ちょっとほっとする。

「…歌ってよ」

目を閉じたまま呟いた。ラビの音が一瞬動揺するのが解る。

「……」
「…歌詞があるでしょ?」
「…いや、でも、」

お前が作った歌詞、じゃんか。戸惑う彼の声に、私の心臓が数センチ落ち込んだ。

私が作ったのは歌えない?

「いや、」

何の相談もなく無責任に軽音を辞めた、元部長の作詞した曲なんか歌いたくもないか。

「ちが、…う、さ」

観念したように、ラビがその高めのテノールで弾き語りを始めた。普段の彼からは想像も出来ないくらいに、落ち着いた、水面でたゆたうような声で。真っ直ぐな愛を紡ぐそのラブソングは、ひとりの少女がひとりの少年を想って書いた歌だった。そして今その少年が、少女を想ってそれを音にするのだ。それは互いに一方通行で対向車線。何度もすれ違っていることにふたりは気が付かない。

少女は夢の中にいる心地さえした。何故私を彼は問い詰めないのかと、これまでに何度考えても解らなかったことを再び考え始めた。仲良しこよしのお友達じゃ、私は幸せになれないのよ。好きとも言えない臆病者なのよ。

少年は血圧が上がりすぎて倒れないことを願うばかりだった。彼女を追い掛けて入部をしたのは他でもなく自分だった。けれど少女は姿を消した。そして今は他人としてオレの音を聴いてる。悲しいのか嬉しいのか解らない。怖いのかもしれないし痛いのかもしれない。離れて行くなら近付くなよ。近付くなら抱きしめられるとこまで来いよ。涙声を悟られないように、愛を歌う声を小さく、した。

私は膝に顔を埋めた。剥き出しのひざ小僧がしとしと濡れる。迷子のように体を小さくして泣いた。けれど彼に知られてはいけなかった。好きだよ、ラビ。私のこと好きになってよ。意気地無しの愛は意気地無しにしか聞こえない。

ガシャ、ン。

「…好きだ」

音が止んで、体が熱くて。彼の体が、酷く、熱くて。涙を隠す必要がないことを知った。きっと彼のものと混ざって解らなくなってしまうだろう。好きだって、なにそれ。ラビの赤い髪の向こうで、彼が大切にしているギターが床に無造作に倒れているのが見える。ラビの腕は力強くて、私はもうちょっとで折れてしまうかもしれないと思った。好きだって、なに、それ。

「…とらないで」
「っ…、え、」
「こっちの台詞よ…」

彼の胸の中で、私はわんわんと泣いた。ラビは怖じけづかずに私を強く抱きしめたまま、私の髪を何度も雑に撫でた。

誰もいない北校舎4階の美術室、現在軽音部部室。春にしては少し冷たい風が譜面をぱたぱたと捲る気配。大きな背中を小さな手で引き寄せた。もう何もいらないと思った。


放課後メロディア/20100501
意気地無しにしか聞こえない意気地無しの彼女の愛は、意気地無しの彼に届いたようです