log | ナノ

「…どうも俺ァ、ヒロインちゃんに惚れてるみたいでさ」

物陰に隠れて聞き耳を立てていた私は、両手で自分の物言えなくなった口を覆い、ただ絶句して立ち尽くした。


―――とんでもないことを聞いてしまった!


夜色が徐々に空を染め上げ、クルー達が部屋へと落ち着いた頃。体を休める前に一口水を飲もうとキッチンへ向かうと、扉からゆるゆると漂う白い煙と、聞き慣れた声が二人分洩れて聞こえてきた。無意識に足音を潜めて近付き、隙間からそっと中を伺う。並んで腰掛ける男女の背中。オレンジの髪の女性は、手元のマグカップの持ち手に指を滑らせて言った。

「それでサンジ君、どうしたの? こんな夜中に呼び出すなんて」

問い掛けられた男はくわえた煙草を灰皿に押し付けると、頬杖をつく女の方へ体ごと向き直った。小さな明かりに照らし出された彼の横顔は、幾分思い詰めて見える。

「ナミさん、実は俺、」

ナミ、と呼ばれた女は、椅子に腰掛けたまま両膝を手で掴むサンジを横目に、マグにゆったりと口を付けた。
これはもしかして、と急速に高揚感が高まるのを感じ、私は急いで二人に注いでいた視線を外して、廊下の壁に後頭部を寄りかけた。皆が寝静まった夜中に、サンジがナミを呼び出し、ナミはサンジに呼び出されここにやってきた。これはもしかすると、もしかするのだろう。ならばお邪魔虫以外の何者でもない私は、すぐに廊下を引き返して、今すぐこの場を離れるべきだ。そう頭では解っているのに足がそこから動かないのは、私の良心を押さえ込むほどの質の悪い好奇心のせいだろう。
沈黙を破るサンジの声を待ち、私は息を押し殺すけれど、彼の言葉はいかんせん私の予想から大きく外れ―――回想終わり、という次第である。

数秒の沈黙の後、ずず、と液体を啜る音が聞こえた。もう一度部屋を覗き込む勇気など持ち合わせていない私に、二人の表情は解らない。けれどナミの声は、案外静かなものだった。

「…そうね。薄々感づいてはいたけど」
「!! そ、そんなに解りやすいんですか、俺は」
「んー、まあ」

嘘、私は全然気付かなかった。驚愕の後に私を襲ったのは、激しい鼓動と熱を伴った緊張。

「どうもヒロインちゃんにばっかり目がいくし、話してると顔が熱くなるし…あの子の笑顔は絶対ェ、守ってやりたいと思うんですよね」

サンジが愛おしそうにそう語るのが耐えられず、私はそそくさとその場を後にして寝室へ戻った。自分のベッドに勢いよく飛び込むと、枕に顔を押し付けて頬のほてりを必死に冷まそうと試みる。

―――サンジが私に、惚れてる?

どくどくと脈打つ心臓に言い聞かせるように、まさか、と呟く。今までそんなこと考えたこともなかった。そんな素振りに気付きもしなかった。ああそうだこれは、明日の朝になれば全て醒める、夢、なのよ。きっと。

布団の中で体を丸めて目をつむるけれど、高ぶった頭の中がぐるぐるして中々寝付けない。数十分と経たないうちに部屋の扉が開く音がした。

「…ナミ、」
「あらヒロイン、起きてたの? それとも起こしちゃったのかしら」

小さく首を横に振ると、ナミは優しく微笑んだ。何事もなかったかのようなその笑顔の裏で何を思うのか考えあぐねて、まさか先程のやり取りを盗み聞いていたとも言えず、おやすみと一言告げると再び布団に潜り込んだ。


眠れぬ夜が明けていく。












「ヒロインちゃん」

穏やかな声で背後から呼び掛けられ、ぼうっと甲板から海を眺めていた私は、必要以上に肩をびくつかせて振り向いた。風に揺れる金の髪が反射させる光に目を細める。白いエプロンをつけたままのサンジが、片手に小さな皿を乗せて立っていた。甘いキャラメルの香りに今更気付く。

「ここにいたのか、ヒロインちゃん。キッチンに居ないから探したよ」

今日のデザート、と手渡されたのは、クリームとベリーの乗ったタルトだった。ありがとうと礼を告げる声と、皿を受け取る手が震える。どうしよう、あたしは今までどうやってサンジと接してきたっけ? 直接告白された訳でもない手前、動揺したら不自然だ。普通にしなきゃ。普通に―――

「…ヒロインちゃん?」
「っ!」

私の様子がおかしいことに気付いたのだろう、頭一つ分程低い位置にある私の顔を、サンジが覗き込んできた。みるみる顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。
なんで?どうしてだろう。私はサンジが好きなのだろうか? サンジの右目には困惑した私の顔が写っていたけれど、あなたは何を思いながら私を見るのだろう?

「熱でもあるのか? 顔が赤い…」

頬に触れてくる手に、心臓がひっくり返りそうになる。そうやって何もかもがさりげないから、私だって気付けないんだ、なんて言い訳がましいことをひとり思うけれど。

「あっ…あはは、大丈夫! なんでもない、なんでもない」

ひんやりとしたフォークを取ってタルトの先を崩し、口に運ぶ。せっかくの美味しいケーキなのに、緊張であまり味が解らないけれど、感想を聞きたそうに私を見詰める視線を感じて、私は出来るだけ自然ににっこりと笑った。

「とっても美味しい、サンジくん」
「あ、…そ…それは良かった」

サンジくんは目を逸らしながら嬉しそうに自分の首に片手を当てた。彼の少しだけ赤い頬に気付いてしまわなければ、私はまだ平常を保っていられたはずなのに。よくよく見てみれば、些細なことだった。そう目を凝らさなくても解ることじゃないか。私まで顔を赤くして、また一口、誤魔化すようにタルトのベリーを頬張った。

「なあ、ヒロインちゃん」
「っ、ん、なななに?」
「…どうしたのそんなどもって」
「え、あ、いや…ごめん…」
「…あのさ。そのタルトを食べ終わったら、聞いてほしい話があるんだ」
「!!」

真っ直ぐ私に向けられる視線の前で、私はぴきりと硬直した。は、話? そんな改まった顔をして、私とどんな話をしようというの? どうしよう。まだ、心の準備、が。

「あ、…あの…えっ…話…?」
「…あ。別に用事があるなら、」
「う、ううん! …わかった…」

サンジはホッとしたように口元を緩めると、皿が空になったらキッチンに持ってきてくれと言い残して、ダイニングへの扉へ消えていった。手元に残ったのは、半分になったタルト。これが、彼と私の砂時計。


あ、あ、ああ。緊張でかたかたと体が震え出す。どうしよ、顔、あっつい。何も知らないで呼び出されて、何も知らないまま告げられたならいくらか良かった。どんな顔をして行けばいい? きっと彼の顔すらまともに見れないんだ。


「…どうも俺ァ、ヒロインちゃんに惚れてるみたいでさ」


「…ふー…」

嫌な訳じゃない。嫌だったらこうもタチは悪くない。でも、ねえ私、ちょっと怖い。私の中で、サンジという男の存在が絶対的に変わろうとしているの。からからの舌が、とろりとした冷たいクリームを吸収していく。もし、私も同じ気持ちって言ったら、彼がどんな反応をするのかを想像する。目はどうだろう、私を捕えて離してくれなくなってしまったら。唇はなんて言うの、言葉を聞いた私は見っとも無い反応をしてしまわないかな。胸が苦しくて苦しくて苦しい。ああ意気地なし。銀に輝くよく磨かれたフォークが、ぴかぴかと光りながらただ黙って、怯える私を見上げていた。


愛されにお行きなさい/20100424
続くのかもしれない