log | ナノ

あーともうーともつかない声が、喉の奥からぐるると響く。がしょんがしょんと掻き回す銀のボウルの中身がはねて、鼻やら頬にぶつかった。それを拭うのももう煩わしくて、ひたすら白い液体を掻き混ぜる。さらさら、どろどろ、ぐるぐる、まだまだ。

「っ…つりそう…」

びりびりと痺れてきた腕をけれど休まず動かしながら、凝り固まった肩をぐっと上げた。料理は時間が命なんだって、彼もよく言っているもの。ぱきぱきと首を鳴らしながらふと時計を見れば、丁度4時を過ぎた頃だった。そろそろ彼がいつ買い出しから帰ってきてもおかしくない。大変、急がないと。

目の前のテーブルでは色とりどりのフルーツと、自分にしては奇跡みたいにうまく焼けたスポンジケーキが皿に乗って私を見上げている。使用済の器具がごっちゃりと押し込められたシンクさえ見ない振りをすれば、ここまでかなり順調である。

大切な人の、大切な記念日。料理なんてろくにしない私の手作りケーキ。テーブルの端に置いたレシピに目を懲らし、行程を何度も確認した。あとは泡立てた生クリームをスポンジに乗せて、フルーツを飾るだけ……

ずるっ。

「わっ、」

はじめは、何が起きたのかいまいち理解できなかった。キッチンを落ち着きなく動き回りながら作業していたせいだと、後悔することになるのは数秒後。つい先程床にこぼした水に足を取られ、体が重力のままに横倒れていく中で、まだ緩い生クリームが逆さになったボウルから流れ落ちる様がいやにはっきりと見えた。








「ただい―――…?」
「ああ、おかえりサンジくん」
「ナミさん! ナミさんだけかい?」

両手に食材のぎっしりと詰まった紙袋を下げ、予定より少し早めの時間に船に戻ったはいいけれど、あまりに人気のない船上を見渡して、サンジは首を傾げた。ナミは、ああ、と頷くと、片手でひらひらと自らの背後を仰いで言う。

「ロビンは部屋で本を読んでて、甲板ではゾロが寝てる、他は皆まだ町ね。…あ、違うわ、ヒロインが確かキッチンに…」

ガッシャ――――ン!!

「「!?」」

ナミが丁度指差したキッチンへの扉の向こうから、まるでタイミングを図ったかのように何かを派手にひっくり返すような音がした。ぱちくりと一瞬目を合わせたサンジとナミだったが、サンジは持っていた袋を慌ててそこへ下ろして音源の方向へ飛んでいった。

…ああ、私が行くべき場面ではないわね、きっと。

直感で悟ったナミは数秒だけサンジが消えた扉を横目で見遣ると、うーんと伸びをして踵を返した。








バンッ、と大きな音を立てて扉が開かれた音に、私はびくりと肩を強張らせた。ぽたり、と前髪から冷たい白が滴る。シャツが肌に張り付いてひどく気持ちが悪い。

「ヒロインちゃん!?」

背後からの呼び声に背筋が凍り付く。咄嗟に辺りに視線を走らせてみたが、入れるような穴は残念ながら見付からなかった。ゴウンゴウンと転がるボウルのうめき声に重なるそれは、間違いなく。

「…サンジ…くん…」

生クリームの水溜まりの中心で座り込んで放心しているヒロイン。傍に落ちた大きなボウルは、同じく床に転がっていた泡立て器にぶつかってようやく動きを止めた。惨劇を目の当たりにしたサンジは状況処理の為に一瞬だけ硬直すると、はっとなって直ぐにテーブルの上に乗っていたタオルを取りヒロインに駆け寄る。

「あー、びしょびしょ…。大丈夫? どこか打ったりしてない?」

ぱさ、と畳まれていたタオルを広げながらサンジくんが顔を覗き込んでくる。心底心配そうなその表情。サンジくんの持ち場を散らかして、食べ物を無駄にして、ケーキを完成させられなかった私に、そんなに優しく声をかけるなんて。
うん、と返事をする代わりに、溢れ出てきたのは涙。無言のままぼろぼろと涙を零す私を見て、サンジくんは慌てたような、困った顔をした。

「っ…な…泣くなよ、ほら、顔こっち向けて?」
「う…っ」

柔らかいタオルで頬に付着したクリームを拭われる。少し舌を出したらべたべたした唇がふわりと甘くてまた泣けてきた。

「失敗しちゃった…」
「ん?」
「クリーム、これが最後だったのに…」
「…―――」

サンジくんがじっと私を見詰めて、次に顔を上げるとテーブルのスポンジケーキとフルーツに視線を止めた。手を伸ばしてケーキの皿を取るサンジくんは、少し意外そうに目を丸くしている。

「これ、ヒロインちゃんが焼いたのか?」

こくりと頷くと、サンジくんはしばらく飾りもない裸のケーキ土台を眺めて、それからそのままばくりとかじった。私は驚いて目元を片手で拭う。

「…お行儀悪いよ、サンジくん…」

こくりと頷きながらも大した問題ではないというように、ごくんと喉を鳴らして、言った。

「…すげ、うまいよ」

彼はニィっと無邪気に笑う。出来損ないのケーキをまた一口。ホラ、と一つまみちぎったケーキを口に運ばれて、素直に含むとしっとり僅かな甘味。サンジくんが作るものには劣るけれど、彼はそんなこと気にしていないみたい。頬を濡らす涙を払って、私の鼻先をぺろりと舐めた。

「甘ぇ」
「…っふ、は、あははっ」

胸がドキドキと立てる音を感じて、私は込み上げるままに笑った。体のべたべたなんてそんなの後、あと。

「ハッピーバースデイ、サンジくん!」
「…ありがとう、プリンセス。オレぁ最高に幸せ者だ」
「デコレーションのないケーキでも?クリームまみれの彼女でも?」
「喜んで全部いただきますよ」

口づけはショートケーキ味。お片付けは、後回しで。




「じゃ、一緒に風呂行こうか?」
「ううん、ひとりで入る!」
「………ああ、そう」


君に捧ぐ!/20100302
happy birthday Sanji!