log | ナノ

むす。わかりやすく唇を尖らせ、膝を抱えて甲板の隅っこに体育座りをするヒロインからは、おびただしい程の不機嫌オーラが放たれていた。居心地の悪さにゾロは男部屋へと移動してしまい、チョッパーやウソップはハラハラと様子を遠巻きに見守るばかり。しばらく様子を見ていたナミは、仕方ないなとばかり頭を押さえ、そこに居座りもう数十分の彼女に近付いた。

「えーと…ヒロイン?」
「………ナミちゃん」

むくりと頭を擡げたヒロインの目はすこぶる暗く、覚悟していたナミも思わず笑顔を強張らせた。じい、とこちらを見つめてくるヒロインの死んだ瞳に、だらだらと冷や汗が背中を伝うリアルな感覚。それでの彼女の前にしゃがみ込み、できうる限り優しく問いかける。

「どうしたの、なんて、聞いてもいいかしら?」
「………っ」

ぶわっと突然潤んだ瞳に、やはり愚問だったのかとナミは慌てた。しかし次の言葉を考え付く前に、飛びつくようにヒロインが抱きついてきて、受身のとれていなかったナミはそのまま押し倒されるように背中から倒れた。

「ナミちゃああああん!」
「うわあ!?」




「…つまり、サンジくんとケンカした訳ね」
「だってサンジくんひどいんだよ!」

再び体育座り体制に戻りながらも、ヒロインは語気を荒げてナミに愚痴を零した。はいはい、とナミはヒロインをなだめながら、隣に座り込み彼女の言い分を聞いてやる。

「料理を教えてほしいってサンジくんに頼んだら、追い返されたんでしょう?」

こっくりと頷くヒロインの瞳にはまた涙が滲む。よほど悔しかったのか悲しかったのか。

「なんでかなあ、あたし、料理うまくなりたいだけなのに。サンジくんが美味しいって言ってくれるような料理、作りたいだけ…」
「どうしてヒロインは急にそんなこと思ったの?」
「…料理は、奥さんの仕事なのよ」
「へっ?」

思いがけない言葉にナミは面喰って声を裏返した。しかしヒロインはあくまでひたすら真剣な顔で、気にもとめず続けた。

「わたし夢だったの、好きな人が帰ってくるのを家で待って、あったかいごはんで迎えてあげるの。でも、サンジくんもわたしも海賊でしょう?わたしは料理なんてたまご焼きくらいしかしらないし、サンジくんのあんな美味しいごはんには叶わないし、だから、…だから〜…っ」

ヒロインがもごもごと口を閉ざしたのを見て、それまで黙って聞いていたナミは、健気に彼氏を想う少女の頭をよしよしと撫で、言った。

「…ですってよ」
「ぅえ?」

ごしごしと目元を擦っていたヒロインは、今まで自分と話していたはずのナミがくるりと後ろを向いたことに首を傾げ、何事なのかと同じ方向を振り返った。その瞬間に、まるでレモンでも丸呑みしたかのように目を見開くことになる。そこにいた人物もまったく同じ反応だった。いつもどおりの黒いスーツ、すらりとした手足と透きとおるような金髪、あまりに近しく、愛しい彼。ついさっき自分を追い払い、落ち込ませている彼。サンジはかなり動揺した調子に口を開いた。

「…き、気付いてたの、ナミさん」
「あたし相手に盗み聞きなんて100年早いわ。どうせヒロインが心配で様子見てたんでしょ?ずっと気付いてたわよ」

やれやれと苦笑いすると、ナミはおもむろに立ち上がってサンジのもとへカツカツと近づく。なんとも微妙な顔をするサンジの肩をぽんと叩くと、「はやく行ってあげなさい」と耳打ちする。そのまま通り過ぎるかと思いきや、何かを思い出したかのように振り返り、ニッコリと一言。

「またヒロインを泣かせたらただじゃおかないから」

ぞくりとサンジは肌を粟立たせずにはいられない。コクコクと数回頷くと、ナミは今度こそ踵を返しその場を後にした。残されたサンジは同じく座り込んだままのヒロインに振り返り、戸惑いながらも静かに歩み寄る。ヒロインはハッと我に返ったのかサンジに向けていた視線を自分のつま先へ落とし、気まずさに体を固くした。

「……ヒロイン」
「ごめんなさい」

サンジが言いかけるや否や、ヒロインは俯いたまま遮るように強い口調で言った。出鼻を挫かれた気分のサンジは、足も口も止めざるを得ない。

「私、サンジくんの料理に文句言ってる訳じゃないの。サンジくんの料理は世界一美味しいよ、だけど、私もサンジくんに何かしてあげたくて、…それだけなの、ごめんね」

しょんぼりと下を向いたままの彼女の声はまただんだんと涙ぐんでくるのが聞いていてわかった。サンジは眉間に皺をよせると、今度こそ手の届く距離までヒロインに近づき、しゃがみ込むと目の前に晒された小さなつむじにそっと口づけた。何をされたのか分からなかったヒロインは、触れられた頭部に右手を当てて不安げに顔をあげる。いつの間にか目の前に移動していたサンジに驚き、ぱっちりと目を見開いた直後、怯えるように唇を引き結んだ。完全に怖がらせてしまったと自覚したサンジは、謝罪を込めて彼女の頭を撫で、自白した。

「不器用なお前に包丁持たせるなんて、危なっかしくて出来なかったんだ」
「…え、え!? んな、あっあたしだって包丁くらい使えるよ!」
「たまご焼き」

何の前触れもなく呟かれたそれに、ヒロインはぽかんと口を開ける。反応が返ってこないので、サンジはすこし照れくさそうな拗ねたような口調でもう一度囁く。

「たまご焼きなら作れるんだろ?」

ようやく意味を理解したヒロインは、ぶんぶんと大きく頷いた。ふ、とサンジは小さく笑い、頼んでいいか?と問う。ヒロインの答えはもちろんイエスだ。彼女の瞳にキラキラとした光が戻る。
ヒロインはぱっと立ち上がると、待ってて!と嬉しそうな声で叫び、ぱたぱたとキッチンへ姿を消した。その後姿を見守ると、サンジはとすっと腰を下ろし、のんびりと足を組む。愛しい愛しい未来の「奥さん」は、オレの為に重いフライパンを振るうのだろう。きれいな指にいくつもの切り傷や火傷を負うのだって目に見えている。それが忍びなくて彼女を水場に入れなかったのに、彼女が戻ってくるのをこうして待っているこの時間は、そう悪いものでもないなと思ってしまう。せっかくだから愛妻料理、味わわせてもらうことにしようか。サンジはキッチンへの扉を見つめながら、にんまりと口元を弛めた。


「…たまご焼きってこんなに黒かったっけ」
「えへへ」


愛し苦悩/20091231