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―――ふわり。突然後ろ髪を何者かに撫でられ、私は飛び上がらんばかりに驚いた。何せ私はただ、任務帰りのシャワーも浴びてさっぱりしたところで、一息つこうと自室へ向かって廊下を闊歩していただけなのだ。あんまり唐突だったものだから、硬直するのも無理はない。動けない私の、まだ半分濡れた髪を弄くっていた手(らしきもの)は、程なくスル、と首筋まで滑り降りてきて、私は漸く金縛りから解けた。

「ひゃあうっ、ちょっ誰…!?」

耳の下に触れた指先に肩をびくりと竦め、出来るだけ距離を取るようにしながら振り向けば。

「…彼女ならすぐ気付けよ」

ちょっとだけ不機嫌そうな色を含んだ声を洩らしながら、同時に揺れるのは私なんかより何倍も綺麗な、金色の髪。いつぞやに貸してくれとせがんで断固拒否された華奢なつくりのティアラは、今日もいつもの位置で輝いている。私が目を丸くしたのに気付いて零れた「ししっ」というからかうような笑い方は、懐かしさと嬉しさと、ほんの少しの腹立たしさを煽った。

「び、っくり、するじゃない。声くらい掛けてよ、」

ベル。そう言い切る前にこれまた突然唇を奪われて、赤くなる間さえ与えられずに「背中無防備過ぎ。ヴァリアー幹部にしちゃ注意力に欠けるね」と楽しむような口調で告げられた。今のはキスというより、私の口答えを遮りたかったから、黙らせたかったから、それだけの意味しか持っていないような触れ方だった。減るもんではないが、全く、もう少し恥じらいだとかムードだとか、特別な行為だということをわきまえて欲しい(でないと私がもちそうにない)

「…?あれ、そういえばベルも、一昨日から任務―――」
「ん、終わった。俺もちょい前帰ってきたとこ」
「…は?だ、だって、予定は確か一週間のはずじゃ」
「王子にかかりゃ楽勝だし。すれ違いになるのやだったから、さ」

だからって一週間の長期任務を二日で片付けるってのはどうなんだ。驚愕半分尊敬半分にベルを見上げていると、薄ら笑いを浮かべていたその口元がきゅっと引き締まって、また優しく口付けられた。今度のは確実に恋人同士のそれを意識したもので、現金にも少なからず快感の熱を灯した唇に手の甲を当てると、すぐさまその腕をベルの大きな手のひらに掴まれ引き剥がされた。そして尚もその整い過ぎた顔を近付け、唇を寄せるのだ。

「待っ…だめよベル、ここじゃ、」
「何で待たねぇといけねーの?お前キスして欲しそうな顔してんじゃん」
「はっ!?わ、私のせい!?」
「つか王子の俺にこれ以上我慢させるなんてお前何様?」
「っ…だ からって、ところ構わずしていいものじゃないでしょ」

む。と、数センチ前にあるベルの口がへの字に曲がったのが解った。だって、嫌なんだ。一言言えば済むようなことに一々その甘美なキスを受けていれば、私がベルに服従してしまうのなんて目に見えているじゃないか。

「あたし、ベルのキス凄く好きだよ。だからあんまり無駄遣いしたくないの」
「はぁ?無駄遣い?そんなん何回したって減らねぇじゃん」
「そう、だけどそういう意味じゃ「それに」

ぎゅう、と押さえ込まれていた両手首を掴まれて、私は小さく眉をしかめた(ちょ、血、止まるよベル…)

「俺は『ムダ』呼ばわりされるようなキスはしてないつもり」
「へ…」
「お前が振り向いた瞬間に耐えられたの奇跡だし。結局喋ってる途中に我慢きかなくなったけど」
「…それじゃ、あ、」

あれは別に、口封じのためだけじゃ…

「……ごめん」
「王子傷付いた」
「え、っ!」
「だからオレの好きにする。取り敢えず深いの一回」
「だっだからここ廊下…!」
「何週間振りだと思ってんの?お前不足で俺が狂う前に充電させろ」

私の手首を締め付けていたベルの手は、いつの間にか私の手のひらと重なっていた。ね、オネガイ。有無を言わせないくせに許可を求めるような声色に、私はすべてを許す気になってしまう。たった一人の愛しい人にくちびるを要求されて、嫌がる理由などどこにあるのだろう?

唇の距離、0センチ。あまい吐息は音もなく呑み込まれた。


//20080509