「……何なんですかこれは」
溜まりに溜まった仕事も漸く一段落し、一週間ぶりに帰ってきた部屋の扉を開けた瞬間の、私の第一声がそれだった。
無理もないと思う。なんせ視界いっぱいに広がったその光景が、最後に見た部屋の風景とはまるっきり違うものだったのだから。
本当に私の部屋なのか何度も確認したが、何度見てもそこは間違いなく自室だ。かつかつかつ、じわじわと沸き上がってきた憤りや困惑やその他いろいろな感情を抑えながら私は部屋の奥へと進み、テーブルの中心にノートパソコンを置くなり立ち上げるとテレビ電話回線に繋ぐ。数秒待って現れた眼鏡の青年、彼が何か言う前に私は早速画面越しに怒声をぶつけた。
「正ちゃん!今すぐ白蘭様に取りついで頂戴!」
「ッるさ…なんだよ、何そんなに怒ってんの、ヒロイン…」
正ちゃんは思い切り眉をしかめて耳からヘッドホンを浮かす。眠たそうに細まった瞳がどれだけ疲労困憊しているかを切実に物語っている。
「見てよこの部屋の有り様を!」
私は小型のカメラをパソコンから外すと、ぐるりと部屋を撮してみせた。玄関を始め、デスク、ベッド、至る所に咲き乱れるは深紅の薔薇。白と黒とで統一されていた私の部屋は見事に真っ赤に染め上げられていたのだ。
「へぇ、細かいことするね」
「こんな部屋じゃ落ち着いて休めないわ。白蘭様にどういうわけか問い詰めないと」
「あの人だとはまだ決まってないんでしょ」
「じゃあ他に誰がこんなことするの?」
「………」
ほらね、第一こんなお戯れが白蘭様は大好きなんだから。画面に映る正ちゃんは深くため息をついて、ごほん、と一つ咳払いをした。
「…生憎プライベートルームに入っているから、今すぐ取りつぐのは無理だよ」
「え!?じゃあこの薔薇は一体どうすれば…」
「数時間くらい我慢出来るだろ?そのうちあの人も出てくるだろうから」
「え、あ、正ちゃ」
じゃあね、僕はまだ忙しいんだ。正ちゃんは言うなりぶつりと容赦なく通信を遮断した。私は呆気に取られて真っ暗になった液晶画面を見詰めたあと、改めて部屋を見渡してみた。
見渡す限り赤一色で目がチカチカしてくる。何を思って白蘭様はこんな大量の薔薇を私の部屋に散りばめたのか(いや実は何も考えてないのかもしれない)そして白蘭様と話せないなら、この文句は誰にぶつければいいのだろうか。
ちゃぷん、と両手でお湯を掬い上げる。バスルームまで薔薇だらけなんて思ってもみなかったが、この調子じゃトイレも書斎も同じ状態だろう。
肩に貼り付いた赤い花びらを剥がしながら、私はぼんやりと考えた。
百蘭様は、花言葉がお好きな方だ。
この前正ちゃんの顔色が優れないときにどうしたのと聞いた所、百蘭様が大量のアネモネを寄越してきたのだと言っていたことがある。
アネモネの花言葉は『期待』だった。それでは薔薇は、というと
「…あからさますぎるんじゃない、百蘭様」
そんなもの、花に詳しくない人だって知ってる人は知っている。今時世間一般の男性だって、薔薇を送る奴なんてよっぽどだ。それを恥ずかしげもなく、こんなに大量に…
「…愛情」
ぽつりと言葉にした瞬間に頬がかあっと上気する。
違う、これはお湯が熱いからだわと自分に言い訳しながら頭を振って、私はザバッと浴槽から立ち上がった。
「…あ、れ」
タオルを頭に被せたまま相変わらず鮮やかなリビングに戻ると、デスクの上で閉じたままだったはずのパソコンが起動された状態で開いていた。
そっと近付いて画面を覗くと、メールボックスが開いていた。勿論私はやっていない。私が入浴中に誰かが部屋に入ってきてパソコンを弄ったのだ、勝手に。
メールが届いているわけではなかった。新規作成ページに、たった一行の文章。
『部屋で待ってるよ』
名前はなかった。代わりにキーボードの上に一輪の赤い薔薇。私はそれをさっと取り上げて、パソコンもそのままに部屋を飛び出した。
―――こんこんっ
「失礼、しま、すっ」
上がった息も整えずに白蘭様の部屋の扉をノックして、私は返事を待たずそれを開けた。ぜえぜえと肩を揺らす私を、驚く仕種すら全く見せずににこにこしながら振り返るのは、この部屋の主人。私をここに呼び出した張本人。
「ん、いらっしゃいヒロインチャン。思ったより早かったね」
「どういうおつもり、ですか」
ごほ、と軽く咳き込みながら白蘭様を睨み付けても、怯む様子なんて全くない。私の問いには答えずにへらへらと微笑みながら、指に付いたマシュマロの粉を舐め取るだけ。
「私の部屋、白蘭様がなさったのでしょう?」
「うん」
あっさりと認めた白蘭様は、また袋から新しいマシュマロを取り出して唇に挟んだ。バレることは承知の上だったらしい。
「正確には『僕の命令で』だけどね。綺麗だったでしょ?ヒロインのためにブルガリアから特注したんだよ」
「き、…綺麗でしたけどっ、」
どうして私の許可もなしにこんなことするんですか!そうずんずんと歩み寄ってガラステーブルに手を置くと、右手をぱしりと掴まれた。
「っ、」
「聞いたって駄目って言うじゃない、ヒロインチャン」
「当たり前です…」
「ほら、手」
え、と掴まれた手を開いてみたら、握り締めていた薔薇がぱさりとテーブルに落ちた。キーボードの上に置かれていたそれは、私が強く握っていたためにかなりひしゃげていた。
…それにしてもこの薔薇、何か…
「…これ、」
白蘭様が手を離して下さったから、私は落ちた薔薇をそっと取り上げる。
「棘が…ない」
「うん」
私の手の中にある薔薇の茎には、特有の棘が一切なかった。
「ヒロインチャンなら何も考えないで、こうやって握り締めてくるかなと思ったから」
ぽかんとする私の唇にマシュマロを押し付けながら、白蘭様はふふと笑う。
「怪我させちゃったら元も子もないでしょ?」
後で聞いた話、私の部屋にあった薔薇は全て棘が抜いてあったらしい。随分と信用がないものだ。まあ実際、棘を気にせず花を握り締めてきた私には意見することなど出来ないのだが。
「白蘭様…」
「ヒロインチャン。僕が言いたかった事、解るよね」
ぱっと薔薇を私の手から払い落として、白蘭様は私の片手の指にご自分の長いそれを絡めた。跳ねる心臓に連動して指がぴくりと震えるのに、白蘭様はまた静かに笑った。
「…花、ことば…」
「そう」
くすくすくす。赤くなった私の顔を見て白蘭様は絶えず可笑しそうに笑っている。きゅ、と必然的に篭った手の力に比例して、私の鼓動も速くなる。
「あんな、恥ずかしいこと…よく平気で出来ますね」
「嫌だった?」
「嫌で」
した、と言い終わらぬ私の口に、また新しいマシュマロをぐっと押し込まれる。
「んぐ」
「まあいいじゃない。僕の好きでやったんだから」
「わ、私の都合は無視れふか」
眉をしかめてもごもごと抗議すれば、白蘭様は何も言わずに口角を引き上げた(肯定ってことかこのやろう…)
ごくりとマシュマロを飲み込んで私は小さく溜め息を吐く。
「ほんとはもっと一杯用意したんだけど、入りきらなくてね」
「…勘弁してください」
「それぐらい」
好きって事だよ。いきなり耳元に唇を寄せられたかと思えば低く響く声でそう囁かれて、ぞくりと体の芯が震えた。
唇を噛んで黙っている私をよそに、白蘭様はテーブルの上に置かれていた資料に手を掛ける。
「これだけ会議に出してくるから、ちょっとだけ待ってて」
そう言って立ち上がりかけた白蘭様の服の袖をはっしと掴み、しかし首を傾げるその美しいお顔は何となく直視出来ず、私はそっぽを向きながら言う。
「そ、それで『愛情』なんですか…」
「ん?…ああ、薔薇の花言葉それだけじゃなくてね」
「へ、」
白蘭様のテーブルには珍しく花瓶が置いてあり、赤い薔薇が活けてあった。繋いだ右手をそっとほどくと、白蘭様はそれを一輪取って棘を綺麗に取り除く。
「赤い薔薇は」
まだ生乾きなままの私の髪にそれをすいと挿して、
「熱烈な恋」
ぼっと顔に血が集まったのを、やけに生々しく感じた。きっと頬は酷く赤い。
白蘭様は動けなくなった私の唇に、ちゅ、と優しく唇を重ねた。そのままぽそりと「可愛い」と呟いて、白蘭様は私の横をすり抜け部屋を出ていってしまう。
バタン、と扉が閉まった音を背中で聞いた途端、私はその場にぐにゃりと崩れた。
(立ち込める薔薇の香に酔ってしまったようです)
//20080317