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「はやと」

いつもの少し甘えるような声が、俺の名前をゆっくりと呟いた。崩れかけた書類の山から目を上げると、ベッドに無造作に寝転がっていたヒロインの視線とぶつかる。手にしていたペンを机の上に転がしてソファーから腰を上げると、俺は彼女の丁度頭上辺りにぼすんと落ち着いた。眠たそうに細めた黒い瞳が俺をじっと見詰めてくる。ネクタイを緩めながら軽く自分の膝を叩くと、ヒロインは体を捻って起き上がり、ごろんと俺の足の上に頭を乗せた。

「あったかい…」

白い頬に手のひらを当てると、ヒロインは俺のそれに自分の手を重ねて、すり寄った。数年前より幾分伸びた髪が、俺の足から滑り落ちる。
ヒロインは一枚の、真っ白い紙切れを手に握っていた。それには俺にも見覚えがあった。俺がまだ高校生のヒロインに送った初めての手紙である。一緒にイタリアに来ないかと、若さ故に随分ぶしつけな言葉が並んでいる。不器用な好きだという想いで結んだ幼いラブレターを、ヒロインが未だに大切に持っていることは知っていた。

「まだ…持ってんのか」
「…ん…」

ヒロインの指の隙間から、まだ16歳足らずだった俺の乱雑な字が垣間見える。保存状態が極めて良いらしく、小さな折れ線が寄っているだけでシミや破れた形跡が少しもないそれは、10年近くも昔に書かれた代物だとはとても思えなかった。

「捨てりゃあいいだろ、そんな紙切れ」
「や。隼人からの最初で最後のラブレターなんだもん」
「…じゃあまた書いてやっからよ」
「それはありがたく貰っとくわ。でもこれは、」

捨てない。手紙を胸元に寄せて大事そうに抱き締めたヒロインに、俺は唇を噛む反面、嬉しいとも思ってしまっている。

ヒロインは、本当に極々普通の女だった。中学で出会って恋をして、並中生のほとんどが進学する並盛高校に上がっても、仲はまだ続いていた。そんなときだ、十代目がイタリアに行くことを決めたのは。「ヒロインを日本に残す」という選ぶべき最良の選択肢を、俺は選ぶことが出来なかった。対した考えなしにイタリア行きを告げればヒロインは二つ返事で承諾してくれて、単純に嬉しかったのを覚えているが、それで万事解決な訳がない。
俺の一通の手紙が、ヒロインの何もかもを奪ってしまった。家族、友人、故郷…それを全て捨ててでもヒロインは着いてきてくれたのだ。俺はヒロインをボンゴレ本部に、広く言えばイタリアに軟禁した。ヒロインは俺を愛してるといつも言うし、それが嘘だとは思えない。それに俺は安心しきって、知らずにヒロインを振り回してきたのかもしれない。

「ヒロイン…」
「え…? っ、ひゃ」

細い細い体をぎゅうと抱き締める。戸惑うヒロインは数秒間あわあわした後、躊躇いがちに俺のシャツの背中を握った。

「…隼人」
「ん…ヒロイン、好きだ…」
「! あ、わ、私もっ…」

力がどうしても篭ってしまう。苦しいはずなのにそんな素振り一切見せず、ヒロインは自分も同じだと返してくれる。
ヒロインを世界一幸せにしてやりたい。だからこそヒロインを自由にしてやれれば、彼女は今より幸せになれるだろうに。

「ねえ隼人。ずーっと私のそばにいてね」

それが私の幸せだもの。そうやってまた、俺はお前に依存していく。

愛して、ごめん。そんな思いさえ呑み込むほどにお前が愛しいなんて、俺は何て、弱いんだろう。


//20080510
主催企画「リリーの唇の恋煩い」に提出