君は誰よりもズルくなりたいと願った












「ねえ光」
「ん?」
「白石ってさ、」
「……彼氏の目の前で他の男の話か」
「拗ねんといてや、大した話やないんやから」

 唇を尖らせた彼女がベッドの上でその細い足をばたつかせる。埃が舞うから、子供みたいだからやめろと、何度も何度も言うのに繰り返す彼女は学習能力というものをどこかに置いてきてしまったのだろう。ひとつ年上の、この落ち着きのない恋人と出会ってから既に七年にもなる。それなのに彼女の心は中学生のときと同じまま、少しも成長していない。

「白石って裸族っぽない?」

 今のように悪戯っぽく微笑みながらくだらないことを言うところだって、昔のままだ。少しも変わらない。

「裸族っぽない? 言われてもなあ……」
「絶対着ぃひんよ、賭けてもええ」

 なんやその自信、なんやそのドヤ顔、ほんましょうもないわ。などと笑っていられたあの瞬間は幸せだった。ずっと片思いしていた先輩に、想いが通じてふた月、ようやくお家デートに持ち込んだのだ。ヤることヤるまで彼女を帰すつもりなんてなかったし、大学に入ってから一人暮らしを始めた彼女が家に帰ると言い出すとも思えなかった。

「光のバイト先、忍足と一緒なんやろ?」
「偶然やけどな」
「本当に仲ええよな、二人」
「向こうが俺のこと好きなだけや」
「光やってあいつのこと好きなくせに、やって昔からあんた忍足にはなんでも話しとったやん」
「……全部やない。今でも言ってへんこともある」

 彼女に片思いしていると言ったことはなかった。彼女と付き合い始めたことだって伝えていない。

「私のこと、言うてへんの?」
「言わんでって言うてたやん」
「せやな。これからも言ったらあかんで」
「……なんで?」
「前も言うたやん、恥ずかしいんよ」

 馬鹿みたいに明るい声でそんなことを言って、彼女は白い頬をこれまた白い両の手で覆った。口元にはいつも通りのいたずらな笑み。財前は昔から彼女のこの笑顔が大好きだった。彼女以外の人間と付きあったことがないわけでもなかったが、彼女以外の人間を愛したことはなかった。……それはきっと、これからも揺らぐことのない不変の愛なのだ。



*****


 つと眠りから覚めた財前は身を刺すような寒さに眉をひそめた。季節は秋を通り越そうとしているのに、裸で眠ってしまったのだから仕方がないだろう。隣で規則正しい寝息を立てて眠る少女も、寒さから逃れるように体を丸め込んでいる。

「……夢か」

 隣で丸まる少女の寝顔を眺めながら呟くと、少女の睫毛が瞬いた。そうしてゆっくりと瞳を開けた少女は焦点の定まらない瞳に財前の姿を映す。寒い……小さな声で呟いてから、

「夢ってなんですか?」

 そんなことを言う。自分の漏らした呟きが彼女に聞こえてしまっているだなどとは夢にも思っていなかった財前は、意図的に声をくぐもらせながら眠たげな表情を作る。

「ねむ……」
「私もです。あと三時間は眠らせてください」
「勝手にしたらええ」
「はい……」

 瞳を閉じた少女が寝息を立て始めるのを見計らった財前は、枕元に置いていた携帯を手に取ると自分が大学で所属している軽音楽サークルのホームページにアクセスする。長い指でキーを器用に叩き、スピードスターなる人物が残した、深夜バイトキツイわぁ……という呟きの上に新たな呟きを書き込む。

『いい夢って目が覚めた後のショック大きすぎるやろ』

 これなら悪夢の方がずっとええわ……と、そこまでは書かなかったのは書いてしまったら自分がとてつもなく惨めな存在であるように思えてしまいそうだったからだ。

「……どのみち惨めなんは変わらへんけど」

 絶賛失恋引きずり中……しかも一年以上も。惨め通り越して情けないわ。
 などと自虐的になる財前は他人には絶対言えないような秘密を3つも抱え込んでいる。1つは8年もの片思いの後晴れて結ばれた恋人が、それなりに尊敬していた先輩と自分との間で二股をかけていたこと……それも浮気は明らかに自分の方、2つ目はそれを知ったときに逆上して彼女に罵声を浴びせてしまったこと、3つ目は……バイト先の4つも年下の高校生と性関係を持ってしまっていること。

「最低やな……俺」

 正直相手は誰でもよかった。などと言ってしまうと最低男のようだったが、実際最低男なのだから仕方ない。後腐れのない都合のいい女だったら誰だって良かったのだ。性欲を満たせば彼女のことを忘れられるのではないかと、そんな馬鹿みたいなことを数ヶ月前の財前は考えていた。そうして選んだ相手がバイト先の後輩だったなまえだ。今になって思えば判断ミスだった。
 大人のそれと殆ど変わらない体つきをしているものの精神的にはまだまだ幼いなまえは、財前の家に来ないかという唐突な誘いにいとも簡単に乗ってきた。特別親しかったわけでもないのにだ。男にだらしない子なんやろうなあ、そんな風に思った財前は彼女が初めて家に訪れたその日の内に彼女を押し倒し、事を進めた。そしていざ挿入というときになってなまえはぽそりと呟いたのだ。私、処女なんです……と。さすがに嘘だろうと思った。処女なら家に誘われた瞬間にそう言えやとも思った。かといって今更中断するわけにもいかず、なまえの方も財前を拒んでいたわけでもなかったのでそのまま…‥そのまま入れたらやっぱり狭かった。アホみたいに狭かった。なまえは痛いとは言わなかった。気持ちがいいとも言わなかった。ただ、カーテンの隙間から溢れる月明かりに照らされた彼女の表情が苦悶に満ちているのを見下ろして、ああ……こいつほんまに初めてやったんやなあ、と悟った。なまえは行為が終わるまでの間ずっと、母音の1つも漏らさずに、ただただ腰を振る財前の顔を見上げていた。


*****


「おはようございます、財前さん」
「……ん、今何時?」
「なまえが朝八時をお伝えします」
「早すぎ……起こすなや」
「起こしてません、財前さんが勝手に起きてきたんです」
「……それはお前がぱちぱちぱちぱち携帯弄っとんがうるさかったから」
「宿を借りといてこんなこと言いたくないんですけど、それは財前さんのわがままです」

 日にちが変わってから眠りに落ちた人間だとは思えないくらいに舌の回るなまえは、全裸の財前とは対照的に学校の制服をきっちりと着込んでいる。財前が眠っている間に風呂に入ったらしく、制服と同じ色をした長い髪の毛は半乾きだった。

「勝手にお風呂借りちゃいました、すみません」
「……今更やな」

 初めてなまえを抱いた日、財前と彼女は一緒に風呂に入った。くすぐったいと喉を鳴らす彼女の体にボディソープをすり込んで、シャンプーをした後の良い香りのする髪にリンスをつけてやった。あのときはまだ彼女に対して物珍しさの入り混じった好意を抱いていたし、初めてを奪ってしまった責任感だって感じていたのだ。……今だってあの日に彼女が浮かべていた苦悶の表情ははっきりと思い出すことが出来る。それなのにいつまで経っても自分の前から消えない彼女を面倒に思ってしまうこともある。

「みょうじさん」
「なんですか?」
「初めてのとき痛かったん?」
「……すっごく今更ですね。もう三十回以上シてるんですよ、私達」
「数えとん?」
「十回目までは数えとった、数えてました。……初めてのときは、痛かったです。当たり前じゃないですか」
「なんで、」
「痛いと言わなかったのは泣き叫ぶ程の痛みやなかったから」
「今は?」
「痛ないです。3回目位からは痛くなくなっとったんで」

 淡々と質問に応えながらも、携帯を弄る手は止めない。友達にメールでも打っているのだろうか? そんなことを考えたりもしたがそれなら両手持ちになるはずだ。

「……さて、そしたら私帰ります」
「どこ行くん?」
「バイトです」
「相変わらずよう働くなあ」
「店長が財前さんのこと褒めとりましたよ。高校生バイトより働かない大学生は初めてやって」
「みょうじさんが働きすぎなんやろ」
「……どっちもやろ」

 珍しく発したため口のタイミングで立ち上がった彼女は、バイトの制服の入った安っぽい手提げを手にもつと、ああ……そうだ、と口を開く。

「夢を見たんです」
「夢?」
「ご馳走いっぱい食べる夢。やけど目が覚めてみたら口に入れられるもんは昨日買った板チョコしかなかったから、アホみたいに虚しかったんです」
「……しょうもな」
「いい夢って、目ぇ覚めたあとのショックがデカすぎるんですよね。やから私、見るなら悪夢の方がまだええです」
「阿呆らし……俺はどっちの夢も見たないわ」
「そうですか。それじゃあ今度こそほんまに帰ります」

 扉が閉まる音が聞こえたのと同時に、財前は溜息を漏らす。
 ……あの女、うちのホームページ知っとったんや。そんで俺の書き込み見て、すぐに目が覚めた後のショックゆうんが自分のことやって悟って朝からあんな嫌味を……面倒な女やなあ。
 罪悪感など少しも感じなかった。ただただ彼女に対して抱き始めている面倒臭いという感情が募っていくばかりだ。だからと言ってそんな風にしか思えない自分が性格の悪い人間なのだと自覚していないわけでもなく、こんなにも性格の悪い自分のところに通い続ける彼女の心情が全くといっていい程理解出来ないので、財前は彼女に対する不信感を更に募らせてゆくのだった。


 財前と交わった回数を10回目までは数えていたと言ったなまえと同じように、財前も彼女との関係が始まってひと月が経つくらいまでは彼女との性交に希少価値を見いだすことが出来ていた。それなりに遊んでいた方ではあったが大学に進学してからは制服姿の女と関わりを持つことなど殆どなかったのだ。正直、高校生とヤれるというだけで嬉しかったし、自分より年下のなまえを可愛いとも思っていた。
 しかし彼女との関係が始まってひと月が経った頃からだろうか、彼女という人間に飽きてしまった。決して嫌いになったわけではなかったのだが、週に三回も四回も交わっていたので食傷気味になりつつあったのだ。その頃から白石の恋人のことをよく思い出すようになった。そしてそれから更にふた月程が経った今日、財前は着実になまえとの距離を広げている。同じ時間にバイトを入れないようにしているし、彼女に誘われそうな日にはサークルの友人達と遊ぶ約束をしておく。彼女と過ごす時間は確実に減っていっている、あとは彼女が自分を誘わなくなるのを待つだけなのだ。彼女だって財前には飽きているはずだ。このまま冷たい態度を取り続ければきっと近いうちに彼女は終わらせる……この惰性にも近い関係を。

*****



「他に何か洗濯するものあります?」
「そこの……靴下」

 下着姿のなまえが床に放った靴下を拾い上げるのを眺めていた。関係が始まってから早三ヶ月、財前の家にも馴染みきった彼女は勝手知ったる様子で拾い上げた靴下を洗濯機に放る。そうして洗剤を入れて、洗濯機のスイッチを押すと、今度はたまりにたまった食器たちを洗い始めた。手荒れが酷いのでゴム手袋なしの皿洗いは辛いだろうに、文句のひとつも零さない。ゴム手袋を買ってきてくれとも言わない。なまえの、ただの高校生にしてはいやに殊勝な様を財前は重荷に感じる。

「暖かくなったらこまめに皿洗いして下さいね」
「なんで?」
「虫が沸くからに決まっとるやないですか。虫、苦手なんやもん」
「春になったらみょうじさんはもうおらんやろ」

 鼻で笑いながら言うと、一瞬にしてなまえの表情が強張った。今にも泣き出しそうな顔をして、テレビの前に座る財前を見下ろす。なんでそんな顔すんねん、そう言いたくなるのを堪えながら、財前も無言で彼女を見つめ返す。

「春になったら……来たらあかんの?」
「みょうじさん、それまでに絶対恋人出来るやろ」
「そんなん、出来んよ……出来るはずないやん」
「なんで? 普通に出来るやろ」
「そやかて私、好きやない人とは付き合えん」
「好きやない男に抱かれるやん」

 あ、泣いた。初めて泣き顔見た。
 なまえの頬を涙がつたう。洗いかけの皿を流しに残して、財前の元まで歩いてきた彼女は、その場に座り込むと再び口を開いた。

「私……好きやない男に抱かれるのなんて無理や」
「俺のことは好きやないやろ」

 それは希望的観測だった。彼女に好意を持たれると困ると思っていた。

「……週に何べんも家通って、好きでもない洗濯して洗いものして、セックスして……そんなん、好きやない男相手に出来るはずないやん。財前さんは、そんなんも分からんのですか」
「……せやけど、俺なんかなんもええとこないで」
「そんなん知っとる」
「否定せんのかい」
「否定なんかせぇへんよ、財前さん……ほんまにええとこないですもん」
「それやったら何で好きになったん?」
「ときどき……優しかった。ほんまにときどき優しかった」

 なまえの嗚咽まじりの台詞は財前の心臓を痛いくらいに揺さぶった。彼女が嗚咽を漏らすたびに、彼女の涙が床に落ちるたびに、財前は言いようもない罪悪感に襲われる。

「優しい奴なんか他にいくらでもおるやろ……謙也くんなんか、ときどきやのうてずっと優しいやん」
「せやけど……私が好きになったんは財前さんなんやもん。他の人に優しゅうされたって少しも嬉しない」
「喜ばせようとして優しくしたんやない……」
「知っとる……財前さんは自分が最低の大人にならんために私に優しくしたんやろ? 雑に扱った分の帳尻を合わせようとしとっただけやって、分かっとるよ。……帳尻なんか、少しも合ってへんけどな」

 なまえは分かったような口を利きながらも泣き続けていた。そうして実際財前のことをとんでもなく理解しているのだから、財前としては反論のしようもなかった。

「……泣かんでや」

 情けなく絞り出したその声を聞いた瞬間、涙腺が壊れてしまったかのように泣き続けていたなまえがぴたりと泣きやんだ。眉を下げたまま、口元をやんわりと緩ませてこんなことを言う。

「財前さんて、やっぱり最低やなぁ……」
「……せやから、俺のことなんか嫌いになればええ」
「嫌いになってほしい、やろ? そう思うんなら嫌われるようなこと言ってや」
「もう十分言っとるやろ」
「……はは、えぐ」
「みょうじさん、ほんまは俺のことなんかそんな好きやないやろ」
「……今度は財前さんを好きな私まで否定するんですか、ほんま嫌な男やなあ」

 呆れるような口調で、だけど声色には悲しみのほうがよく混じっている。未だ崩れない笑みすら痛々しい。

「財前さんが私のこと好きになる日が来るんやないかって……思ったらあかんの?」
「……それまでにみょうじさんに優しくしてくれる別の男が現れるやろ、そしたらみょうじさんは俺を忘れてその男を好きになるんや」
「あ……」
「どないしたん?」
「分かってしもたんです。……財前さんは私のこと好きにならんって。やって私、財前さんやない人に優しくされても、財前さんやない人にアホみたいに好かれても、その人のこと好きになれん……。せやから、財前さんも……財前さんに、私がいくら尽くしても、好きやって言っても、私のことを好きにはならんのやって……彼女のこと、忘れられんのやって、分かってしもた」
 
 ……やはり彼女は聡かった。子供のくせに、子供だからなのか、人の感情をよく理解して、それを口にしてしまう。そうして自分の言葉に傷ついて、見ているのも辛いくらいに塞いでしまうのだ。



*****


 あの日洗いかけの食器たちと、干すことの出来なかった洗濯物を財前に託したなまえは、力ない足取りで財前の家を出て行った。それから一週間ほど後、彼女から今晩お宅へうかがってもいいですかというメールが来たとき、財前はそのメールに返信することをしなかった。何事のなかったように彼女との日々が続いてしまうことも、部屋に訪れた彼女にもう終わりにしましょうなんて切りだされてしまうことも、許容することが出来ないと思ったからだ。
 そうして彼女からの連絡はぱったりと途絶えた。自分から彼女に連絡をしようとは思えず、バイトのシフトにしたって彼女とはかぶらないように入れてしまっていたから、彼女がどう暮らしているのかを知る術は少しもなかった。そこで財前はようやく気付くのだ。高校生の彼女と、大学生の自分があんなにも深く、密接に関わっていたこと、あれは尋常ではありれないことだったのだと。考えて見れば当たり前のことなのだが、それに気付けなかったのは彼女の存在が財前の生活の一部になってしまっていたからなのだろう。どうせ彼女がやってくれるからと、洗濯や皿洗いを殆どしなくなっていたひと月程前の財前は、面倒だとか煩わしいだとか思いながらも彼女の存在を認めていたのだ。
 今でも部屋の至るところに彼女の名残が残っている。ピンク色の歯ブラシに、あの日食べようとしていた板チョコ、女物の洗顔料だとか……使いきれなかったコンドーム。全て目の届く範囲に残っているのに、持ち主である彼女だけは姿を現さないのだ。
 失って初めて好きだったと気づいた、だとか……そういうありがちなメロドラマの登場人物のような心情に陥っているわけではない。財前は今でも7年間の片思いを忘れてはいないし、なまえに対して恋愛感情を持ち合わせているわけでもない。ただ、ただ……嫌いだと言われたわけでも、もう終わりにしましょうと言われたわけでもないから、部屋中に満ちる彼女の残り香が消えないから、彼女の存在を過去のものにすることが出来ない……それだけのことなのだ。


*****

 二か月ぶりになまえと顔を合わせた。もちろんバイト先でのことだ。財前が働きだすよりも二時間は前から謙也と二人で店を回していた彼女は、財前が顔を見せると小さな声で、

「おはようございます」

24時間営業の飲食店特有の挨拶を搾り出した。財前の方もできる限り平静を保って同じ言葉を返す。彼女はそれっきり何も言わなかったし、財前も彼女に対して何も言わなかった。
 タイミングが悪いことにその日はすこぶる客入りが悪かった。客入りの少ない時間帯は一人でも回せるような店なので、客入りの悪いときに三人もいれば自然と作業もなくなる。フロアを任されている財前は、弁当を入れるための袋をたたむ作業を続けながらぼんやりと窓の外を眺めていた。先ほど暇を持て余した撫子が清掃していた駐車場は落ち葉の一つも落ちていない。

「それ多めに入れすぎなんちゅう?」
「……きちんと計量しとりますから」

 耳をくすぐるのはサラダを作るなまえと、それにかまう謙也の声だ。謙也と話す彼女の声が明るいのを聞いて、財前はほんの少しだけ安心した。

「そういえばお前、あの話どうなったん?」
「あの話?」
「ほら、大学生の男の家通っとるゆう話」

 一瞬息が止まりそうになった。彼女はどこまでを謙也に話してしまったのだろうかと、小心者のような不安に陥って、だけれどこの数ヶ月少しも態度を変えなかった謙也が、嘘をつくのが苦手な人間であったことを思い出して落ち着きを取り戻す。

「ああ、終わりましたよ」

 さらりと言ってのけたなまえはどんな表情を浮かべていたのだろうか。振り向いて確かめようとして、だけれど何も知らない謙也に怪しまれるのを恐れたからそれは叶わなかった。ただただ、彼女の終わりましたよという言葉だけが頭の中で響き続けている。

「そうなんや、新しい彼氏は?」
「そんなんおるはずないでしょ、私モテへんし」
「俺はみょうじみたいなん好きやけど」

 今日、家に帰ったらなまえの残していったものを全て捨ててしまおう。全て終わったことなのだから。

「大人はズルい……それがよう分かったんですよ、私」
「俺も?」
「忍足さんもきっとそうです。大人はズルい、子供は大人のズルに傷つけられるばっかや」
「みょうじ?」
「…………っ、」

 しばらくの間を開けて、袋を畳む手を止めた財前の背中に悲しいくらいに色のないなまえの声がぶち当たる。

「私は……誰よりズルい大人になりたい」











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