「私と溺れましょう、メフィ」 ここは閉じ込められた水槽の中でもなければ、深い深い海の底でもない。だからといって生活感の欠片もない彼女の部屋でもなければ、豪華絢爛の私の部屋でもないのだ。だったらいったいどこなのかと問われれば、さあここはいったいどこなのだろうか。ただ一つ言えるのは、 「果たして、君とここで溺死ができるものでしょうか。」 「溺死じゃないわ、”窒息死”よ。」 そんなものどっちでもいい、と肩を竦めてみせた私に彼女はにっこりと微笑んだ。その笑顔はもはや形だけのものだろうに、なぜ崩れないのか。そもそも腹に物騒なものを突き刺した状態で、なぜそんなににこにこと笑っているのか。まるで彼女を取り囲んだ一体が、遠い映画のワンシーンのように感じられる。そう、私は現状を理解できずに受け入れることができていないのだ。 彼女はいま、何をした…? 「あら、メフィスト。あなたらしくもないわね。そんな間抜け面、獅郎みたいよ。」 「それは、藤本神父に失礼じゃありませんか。」 「だって本当なんだもの。」 クスクス笑う彼女の口元からは、ツーと赤い何かが滴った。心なしか額には汗が滲んでいたし、呼吸もどうやら苦しいらしい。それでも理解できない私は、本当に間抜けなのだろうか。 「どうしたの、フェレス卿。何かこの世界が激変するような一大事でも起こったのかしら。」 「例えばサタンの子供がこちら側にいる、とかですか。」 「そうそう、それをまさか祓魔師が匿ってるとか。」 ゴホッという鈍い音と共に吐き出された赤い塊を私と彼女は同じように遠い目線で眺めていた。私が理解できていないように、彼女だって理解できていないのだろうか。明らかにおかしいのは、私ではなく貴女だというのに。 「ふふ、やったわ。」 「何がでしょう。」 「賭けに勝ったわ、私。」 「”賭け”?」 彼女は心底嬉しそうな表情を浮かべると、胸元で光っていたロケットを引きちぎり、それを私に差し出した。赤く汚れたそれは鈍く光ながらも自己の存在を主張するかのように輝いていた。とても大事にされていたのだろう。 私がそれを受け取ると、彼女の手は崩れ落ちるかのように地面に転落した。それを受け取るため膝をついたために、必然的に彼女と顔が近くなった。彼女はそれに気づくと不意に起き上がろうと肘を立てたが、力が入らないのかすぐに崩れ落ちてしまった。私はいまだにそんな光景を遠く眺めている。 「身体がいうこと効かないわねぇ」。 「そうですか。」 「予想外だわ。」 「そうですね。」 「ねぇ、メフィスト。」 「はい、なんでしょう。」 「私が消えたら、世界は変わってくれるかしらねぇ。」 彼女が赤く濡れた手を天に翳した。寝転がった状態で、月に自らの手の平を重ねるかのように翳しながら、やがて力をなくして崩れ落ちる。 「なぜ、そんなことを?」 「馬鹿ね、メフィ。私は人間なのよ。人間は寂しい生き物なの。あなたと違ってね。」 「私とは違う?」 「そうよ、悪魔の貴方とは違うってわけ。」 「難しいですね。」 「簡単よ、とっても簡単。」 「私にはわかりませんよ。」 「だから馬鹿だと言ってるのよ、メフィスト。」 いまだ笑っている彼女は、あきれたように私を見つめている。そんな彼女の瞳に映った私は本当に間抜け面をしている。 「だったら言わせていただきますけどね。」 「えぇ、なあに?」 「貴女だって、よっぽどお馬鹿さんでしょう。」 「あら、どうして?」 「貴女はいま、”何をした”んですか。」 そうだ、彼女はいま何をしたんだ。私にはそれがわからない。わからないからこんな間抜け面を浮かべているんじゃないか。だというのに彼女はさも当然とでもいうかのように笑うんだ。 「何も、してはいないわ。」 「……なぜ、」 「フェレス卿?」 「…なぜ、庇った?」 目を細めてから、また笑う。もう止めてほしい。私が見たいのはそんな顔ではない。それこそ、私が悪魔で貴女が人間だというのなら、浮かべる表情はきっと逆だろう。 「貴方はきっと、限りなく人間に近い悪魔なんでしょうね。」 「答えなさい。」 「そうね、何ということはないわ。」 「貴女は、」 「仕事よ。貴方を護ることが私の仕事だったんじゃないかしらね。」 「仕事、だと?」 「ええ、仕事。」 ゆっくりと瞳を閉じてから、貴女の唇はぎこちなく動く。 引き攣った頬には、もう笑顔なんて見当たらなかった。 「なんてね、」 再び開いた瞳から涙がこぼれ落ちたとき、私はやっと彼女がもうすぐ終わってしまうことを理解した。 「理屈じゃないのよ、人間だもの。気づいたときには、身体が動いていたわ。仕方ないじゃない。」 「だからといって…、」 「どうしてあなたがそんな顔するの、メフィ。私はあなたを護ったのよ。よかったじゃない、私みたいに血まみれにならなくて。」 「…っ…りなさい。」 「その素敵なスーツも汚れていないわ。なにもかもが綺麗なままよ。」 「黙りなさい!!」 「黙らないわ、メフィ。」 強い力の篭った瞳がうろたえる私の姿を捕らえて、静かに瞬いた。こぼれ落ちた涙は、血の海とまざりあっては、その面積を広げていく。 もうどうにもならないのだ。 気づいたところで、どうにもならないのだ。彼女は最初から悟っていた。わかっていたのだ。自分の腹に突き刺さったものも、赤く噴き出す液体も、なぜ周りの祓魔師たちが騒いでいるのかも、なぜ私が呆然と貴女を見つめているのかも。 わかっていたから、笑ったのか。 「人間は、弱いわ。」 「…っ…だったら、」 「私は、私が死んでも世界は変わらないことを知ってる。」 「………。」 「燃えて灰になれば、みんな私を忘れてしまうのよ。」 「私は、」 「きっとね、あなたも私を忘れちゃうわ。ねぇ、メフィスト。人間は弱くて淋しがり屋で傷つきやすくて傲慢なの。」 ゴロリと身体の向きを変えた貴女はいまだ膝をついたままの私にゆっくりと手を伸ばした。 「ごめんね、メフィ。私は誰に忘れられてもよかったけど、貴方にだけは覚えていて欲しかったの。」 貴女がぐいっと私の腕を引っ張る。どこにそんな力が残っていたのか、私の身体は大きく崩れた。 「私の体中の空気を吸い取って、私を殺して、メフィ。」 言葉と共に重なった唇は、驚くほどに冷たかった。 「……あなたのせいで、死んだ女。あなたが、殺した、女。……ねぇ、…もう、忘れ、られない、でしょう?」 なんて卑怯なんだ。 まるで悪魔だ。 小さく呟いた私の言葉を理解した貴女は満足そうに微笑むと、本当に体中の空気を失ったかのようにぴくりとも動かなくなった。 私が限りなく人間に近い悪魔だというのなら、貴女は限りなく悪魔に近い人間だ。それでも貴女は人間だから、弱く儚い生き物だった。 貴女がいなくなっても世界が変わらないというのならば、私はどうして貴女を忘れられないのか。 「貴女がいらないなどと、誰が言ったものですか。」 赤く濡れた手の平が月になることはない。冷たいそれを手にとって金のロケットを強く握らせた。 「私を愛したことが、あなたの一番の過ちでしたよ。」 それでも、貴女がいらないなどとどの口が言えたものか。余計な存在は、私の方だったのかもしれない。この世に本当に必要だったのは、悪魔の私ではなく人間の貴女だったのだ。 それでも貴女は笑うから、 「私はとっくに、溺れていたはずなんですけどね。」 獅郎と”賭け”をしたのよ。 私は貴方を愛してみせる、と。 獅郎は 人間のお前には無理だ と笑ったけれど、 私は確信してたわ。 だって、 貴方はまるで人間だったもの。 だったら、今すぐ窒息して貴女と溺れたかった 110718 企画『青に落ちた日』様 Mr.RULER 佐倉 |