"恥の多い人生でした"
有名なあの小説の冒頭を思い出すような今日この頃。
話題をふった男は意味浸な笑みを浮かべている。氷だけになったグラスを掻き交ぜるストローがカランカランと音を立てる。シンと静まり返ったこの空間で、奇妙な雰囲気を醸し出していた。
「何かついだら?」
「えぇねん」
「そう」
私のグラスは空っぽ。彼がやって来るずっと前に私のグラスの氷は解けて、その水も飲み干してしまっていた。
「このファミレスな、ほんまやったら半年後に潰れてたんやって」
「そうなんだ」
「よう通うたと思わん?」
「そういえばそうかもね」
グラスの真ん中に堂々居座っているこのファミレスのロゴマーク。そっと指でなぞってみると、奇妙な安心感が芽生えた。
いつも待ち合わせには遅刻する真子を、私はいつもキンキンに冷えたアイスティーを飲みながら待っていた。あんまり遅い時は、今度はあったかいココアをついで冷えた身体と冷めた心を温めるの。
「ココア」
「寒いんか?」
「ううん、もうすぐお別れだから」
ココアを飲んでいると必ずあなたはやって来る。どんな言い訳をしようか、と悩んだ表情を浮かべながら。申し訳なさそうに口を開いたかと思うと、「目の前におった婆さんが急に倒れたんや」とか、「道路に飛び出した猫を助けてたんや」とか、くだらない嘘ばっかりで。
「お別れちゃうわ」
「お別れよ」
席を立つ私を真子が鋭く睨みつける。
「飲んだらあかん」
「どうして?」
「どうしてもや」
あまりに真子が真剣だったから、私は再び席についた。
嫌な沈黙が流れる。
「"恥の多い人生"やと思わんか?」
沈黙を破ったのは真子だった。
「たいがい、愛想尽かされると思っとったわ」
「慣れって恐ろしいわね」
「ほんまやな」
付き合った当初はドタキャンされることにいちいち腹を立てていたものだったが、今ではドタキャンされること前提で約束をするのだから、私も都合のいい女になったものである。
「でも、今日は遅刻しなかったね」
「当たり前や」
まだ私は一杯目のアイスティーしか飲んでいないのだから、真子から言わせてみれば大きな成長なのかもしれない。
思わず笑みが零れてしまう。あなたは最後まで子供らしいようだ。
「隣、来ん?」
「んー…」
綺麗に濡られたピンク色の爪があなたの指をなぞっている。顔を上げれば先程までの余裕の笑みなんか消し去った、真剣な表情を浮かべた真子がいた。
「一緒にならへん?」
「なにそれ、プロポーズ?」
「他に何があんねん」
「だってここファミレスだよ?」
ムードもへったくれもないじゃないか。まぁ、おかしな私達には調度いいシチュエーションなのかもしれないけれど。
「返事は?」
「ふふ…、どうしよっかな」
真子が席を立つ。一人分しか座れないソファーに無理矢理座ると私を力強く抱きしめた。身体が密着する。暖かい。暖かいよ。
「約束してくれる?」
窓の外には人っ子一人も見当たらない。真っ赤な夕日が町中を照らしてくれていて、こんな古びたファミレスにもそれなりのムードを作っているようだった。
誰もいないファミレスで、私達二人だけがこんな美しい景色を知っている。これだけで恥の多かった人生なんて払拭できるんじゃないだろうか。
「約束して」
「何や…」
「約束」
「言うてみ」
抱きしめる彼の背中越しに、壁に掛かった時計が見えた。長い針がもうすぐ天井を指すのだろう。夕日も、ファミレスも、アイスティーも、ココアも。なにもかもが終焉を迎える。
「真子」
あと何秒?
「なんや」
針は止まることを知らない。
「約束よ」
長かった二人の時間。
「なんでもええよ」
あなたの顔を見つめてキスを送る。最初で最後の私からのキスはいかがだったかしら。
「最後の瞬間まで、私を抱きしめていて」
「お安い御用や」
"恥の多い人生でしたか?"
"とんでもございません。"
"とても…、とても…"
"幸せに満ちた人生でございました"
3、2、1でさよなら
ワンダーランド100731
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