ふわり、と煙草の香りが薫る。先程まで降っていた雨のおかげで湿気がすごい。窓を開けて校庭を見下ろすと、すっかり暗くなった空間に不揃いな姿が四つ。その姿を見下ろしながら、もう一つふぅと息を吐き出すと、煙は再びふわりと浮き上がった。
「結局、お前はヨリ戻したかったのか?」
不意に後ろから響いた声には振り返らずに、煙草を揉み消した。仲よさげに繋がれた手は、本当は最初から繋がっていたんだ。見守る赤髪の目も優しく、呆れたようなガキもどこか柔らかい雰囲気を出している。
「なんのことだよい」
「生徒に手は出すなよ」
「同僚に手を出してるやつに言われたくないよい」
「……うるさい」
歯切れの悪い同志に苦笑いを返しながら振り返ると、イゾウはドアに寄りかかって微妙な顔をしていた。鋭いこの男のことだ。俺となまえの関係なんて百も承知だろうに、ここまで何も言ってこなかったのは面白がってか、気を遣ってか。この男ならば後者だろう。リーゼントだったならば絶対に前者だ。
「心配かけたよい」
「……マルコ」
「もう何もないよい」
最初からそうだった。俺となまえには、教師と生徒という関係でそれ以上の関係に進展する可能性だけは最初からなかったんだ。
キスがしたい。泣きそうな顔で笑うなまえにキスをする度に思うことはただ一つ。
誰か、こいつを助けてやってくれないか、と。
エースがなまえのことを好きなんだと知ったのは本当に偶然だった。冗談で会話をしているところをサッチにからかわれたエースは、信じられないくらい顔を真っ赤にしていた。サッチもなまえも気づいていないようだったが、俺だけにはわかった。エースの本気の恋を。
エースならばよかった。いや、エースだからよかった。エースにならば、なまえを安心して任せられる。だから、俺は、学年が変わると同時になまえを手離したんだ。卑怯な俺はピアスを押しつけて。
これ以上は無理だ。これを俺の身代わりにして頑張れよい。
目を見開き俺に縋る女を、俺は引き離した。すべてはなまえのためだった。始めて優しくされたなまえは俺の恋情を愛情と勘違いしてしっぽを振ったんだ。わかっていた。わかっていて、俺はそれを利用してしまったんだ。
「お前、本気でみょうじのこと……」
「さあねい」
俺の隣に並んだイゾウは呑気に車に乗り込む二人の姿を静かに見つめていた。そして、不意に俺に視線を向けると、ぐいっと眉間に皺を寄せた。
「でも、みょうじはマルコが好きなままエースと付き合ったんだろ?お前なら取り返せたのになんでやらなかったんだよ」
後悔してんだろ?とイゾウの顔は言っている。
俺は再び校庭に視線を向けた。車は静かに走り出した。その姿が校庭から消えるのと同時に、俺は新しい煙草に火をつけた。
「馬鹿だねい、お前も」
「あ?」
笑う俺を静かに見つめるイゾウは差し出した煙草を素直に受け取った。
横で火をつけるイゾウを横目で見ながら俺の口からは煙が漏れる。
「最初から別れるつもりで付き合う馬鹿がいるかよい。好きだから付き合うんだろうが。」
咥えた煙草は苦かった。隣で目を見開いた同僚を横目に、シュッとネクタイをゆるめる。
今日はもう帰ろうか。あしたあいつにおめでとうと言えるためには、あと少しだけ後悔をしておくことが必要なようなので。
もっとずっと単純なこと
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