遊城十代の結婚式に参列したあの日から、私の痛みは始まった。

胃の中が煮えくりかえって沸騰しているような、腸がどろどろになって内臓を溶かしているかのような、そのような感じの腹痛が、かれこれ半年以上続いた。症状は常にではなく、1日数回、何の前触れもなく唐突に表れては、激しい下痢と共に消えていく。

医者に行き検査もしたが異常は見つからず、処方薬も効くことがなく、恐らく精神的なものだろうと言われたものの、私の心は至って平穏であるので、あまりピンと来なかった。

椅子をギシ、といわせて机に向き直った医者は、自分の中で押し殺している何かがあるのかも知れませんね、とさも他人事のように言い放った。

「思いあたる節が無いでもないですが。でもすごく平気なんです、心は晴れやかだし、肩の重い荷がおりたかのような、そういう清々しささえ感じるのに。」

考えれば考えるほど、心底わからない。だけども確かにこの痛みはあの日から始まった。そして私はあの日までずっと、彼…遊城十代に対して、強い後悔に似た感情を抱き続けていた。でもそれは、彼の結婚…によって、恐ろしいほどキレイに澄んだ感情へと昇華されたはずだ。

結婚は愛の墓場だ。とママが言っていた。私の愛した彼は、私とは違う他人の墓で死んだのだ。

「少し様子を見てみましょう。のたうち回るほどの耐え難い痛みがあるようですが、そのような時に飲める安定剤と痛み止めを出しておきましょう。」

受付で会計をすませ、処方箋を貰った。ビルの一階にある薬局で薬を出してもらい、帰路についた。


 たった一人で暮らす部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せた。こういう時は、なんとなく冷や汗が垂れてきてから、お腹の痛みが出てくることが多い。
カーテンの向こうは赤く夕陽に染まっており、閑散とした部屋中をやさしく燃やしている。

あ、ほんとにいやだ。ぬるりとした汗がこめかみを伝う。痛くなってきた。

私はその場で、カーペットの上にうずくまる。痛みが始まると、私の懺悔も同時に始まる。ただただごめんなさい、ごめんなさい、という言葉のみが脳の中を引っ掻き回す。私は何に謝っているのか、自分でもわからないが、滑稽なことに痛みのあまりに許しを乞う。

朦朧とした意識の中、さきほど処方された薬を口に含み水道水で流し込んでみたが、10分たっても20分たっても効いてる感じはしなかった。


 翌朝、目覚めたのはトイレの床だった。痛みに苦しみ疲れたのか、トイレで寝てしまっていたらしい。
便器に座り直り、心を無にして空を見つめた。このような日々が一体いつまで続くのだろうか、などと考えた。ふと目の前のカレンダーに目がいく。あ、今日は、8月31日だ。最悪。


顔を洗って寝直そうと思いベッドに横たわった。窓の外は朝靄がかかって白んでいる。夜明けが近い。硬い床で寝ていたせいで首や腰が痛い。そういった部分でも最近、年齢を感じる。あの頃に比べたら、わりと歳を重ねた。そう、あの頃、と私が形容する時、あの頃というのは常に、あの頃の事であるのだ。

遊城十代と私がお互いを同一視して、完全な魂の番いだと信じてやまなかった、学園での完璧なあの日々…。


 遊城十代は確信したように言うのだ。いつもそうだった。だから私も確信できた。一寸の綻びも無い信頼関係。大好きで、正義で、法律で、彼は彼でありながら私自身だった。

「名無しは俺のために存在してるよな。俺たち以上の関係ってないよ。友情とか、恋愛とか、そんなくだらないものとは訳が違う、もっと崇高なものだよな。」

太陽のようにギラつき輝いた瞳で私を見抜くのだから、それが嘘のはずなんてない。ずっと一緒にいると思っていた。完全無欠の私たちは、どれだけ離れても確かな関係の系が切れるはずなんて無いと信じてやまなかった。

でも、それでも、あの若く青い日々は過ぎ去った。過ぎ去ってしまったのだった。



「十代が結婚するから、お前も式に来いよ。」

 万丈目くんからそう連絡が来たのは、27歳になる歳の夏だった。
アカデミアを卒業した私と遊城十代は、それぞれ全く別の道へと進んだ。わざわざ連絡をとる必要はない、と思い込んでいた私は彼との連絡手段をひとつも知らなかった。入学から三年間、ずっとそばで過ごしてきた。お互い離れた事がなかったので、イメージが湧かなかったのだ。想像力に欠けていた。孤独というものが私たちにも存在するなんて、そしてそれが私"たち"という言葉で考えても良いのか、今はもはやそばにいない彼の気持ちを知る術もなかった。遊城十代は、私の失われた半身となったのだ。

「…唐突だね、結婚…なんて…知らなかった。」

「ああ、なんだかお前ら、卒業してから疎遠になってたみたいだったしな。当然だろう。でもあんなに仲が良かったのになぁ。」

電話を握る手が小刻みに震える。唇が痺れて、段々と呼吸の仕方を忘れていく感覚がする。
私たちにはあまりに何もなさすぎた。何もなくても充分だと思い込んでいた。


 結婚式の日のことは、鮮明に覚えている。その日を迎えるまで、私の頭はずっと混乱していた。久々に会う友人達、学園の教師陣、雑誌でよく見るデュエリスト、遊城十代の周囲の人間が、遊城十代を祝福している。私はこんなにも状況の把握ができていないのに、遊城十代が、遊城十代だけが祝福されているのだ。

遊城十代の隣の女の子は、綺麗で、優しそうな、柔らかそうな人だった。

彼は私の強いところが好きって言ったのに、まるで正反対で笑えてしまった。似ているところを探しているうちに虚しくなってやめた。パーティには多くの人が参列しており、会場の片隅にひそんでいれば新郎新婦に姿を見られることもなかった。私はそうしてその日をやり過ごした。

とにかくその日に、私の中の遊城十代は死んでしまった。古い爪痕だけ少し残して、あとは綺麗に死んでくれた。私の丘はさっぱりとしている。まだ誰の墓も建っていない。建てかけていた彼の墓は、記憶の中で簡単に更地と化した。

 私は一人で、ここにいた、恐らくずっと一人であった。二人が一つという錯覚を見ていただけで、私は生まれた時から今に至るまで、ずっと一人であった。そう考えるとひどく合点がいく。失われたのでは無い、最初から半身しかなかったのだ。存在しないもう半分の半身を求めて、完璧な姿になれたと勘違いしていただけで、遊城十代だけがそのことに先に気がついた。

ほら、またお腹が痛い。もうどうにもならないことなのだから、何も悩む必要がないのに。ずっとずっと内臓が痛い。まるで半分をちぎり取られたかのような、そのような痛みだ。もう耐えたく無い。わけもわからずに惨めで辛くて、いっそ死んだ方がマシかもしれない。

「原因をとりのぞけるのであれば、それが一番ですが。」

医者の言葉を思い出す。私はすっかり平気なはずなのに、考えても考えても、全ての根源はあの日にある気がしてならない。


 遊城十代の連絡先を入手するのはひどくあっけなく、簡単だった。
万丈目くんから二つ返事で送られてきた電話番号を画面にうつして、通話ボタンを押すところまではきた。押せば繋がる。話して伝えれば、苦しみは終わる。本当に?何を話す?何が終わる?何も始まってないのに。

あ、また冷や汗。痛い波が来る。辛いので、通話ボタンを押した。ほとんど何も考えてはいなかった。外は日が沈みかけていた。今日は何も口にしていない。そんなことよりお腹が痛かったので、さっさとどうにかなってしまいたかった。

電話越しに出たのは彼の奥さんであった。

「あ…学生時代の…十代くんの友人で…名無しといえばわかると思います…かわっていただけますか?」

「はい、少々お待ちくださいね」

保留音楽が鳴る。額が汗ばみ、身体がわななく。何をどうしたらいいのか、自分が何をしているのか、本当に何もわからない。痛くて何もわからない。ただ痛みに終わりが欲しかった。何もわからないから教えて欲しかった。

「…もしもし?」

1、2分待ったのか、それとも10分か20分は待ったのか、そのような時間感覚すら失われる程にわけのわからない感情で混乱していた私の耳に、懐かしきあの声が響いた。あ、これは私だ、と。

「…名無し?本当に名無し?」

訝しげな彼の声音が、私の脳をくすぐる。震えた声で、そうだよ、私、と返す。言葉が上ずる。

「すごくおどおどした態度だったって、嫁さんが言うから、名無しのはずないって思ったけど、驚いた。本当に、お前じゃん。はは。」

あは、つられて引き攣るように笑う。お腹はとっくに限界を超えて痛い。言葉を絞り出そうとするが、何も考えずに通話ボタンを押したせいで、何を話して良いのかわからない。何がなんだか、全然わかっていない。

「今日、もしかして覚えててくれたのか?」

誕生日だってこと、忘れるはずがないよ。そう言おうと、言葉にしようとするけれど、声が出ない、言葉にならずに、喉の奥だけが熱くなる。そんなつもりなんてないのに勝手に涙が出てくる。こんな感情自分の中にもう存在しないはずだったのに、それを悟られたくなくて更に何も言えなくなる。本当にばかばかしい茶番だ。

「ありがとう。…ずっと話したかった。結婚式も来てくれてたんだよな?」

気づいていたのか、はたまた誰かから聞いたのか。小さい声で、うん、と捻り出した、か細く惨めな私の声に、十代は少し困惑している様子で言った。

「おい、なんか、どうした?久々すぎて、なんかよくわかんねえな。俺たちって、どんな感じだったっけな。」

少なくとも、こんな感じじゃなかったよ。全能感で満たされたあの感覚を忘れられるはずないよ。そうじゃないの?
聞きたいけど、言葉が詰まる。少しでも口を開いてしまえば、堰を切ったかのように感情が溢れてしまいそうで、すごく怖い。床にうずくまり、腹を抱えた。

「俺さぁ、ずっとお前に言いたかったことがある。」

私もずっと聞きたかった事があるよ。

「お前は、俺がいなくても平気だったんだな。」

そんなわけないよ。離れていてもずっとそばに感じていたよ。

「卒業してからお前がそばにいなくなって、ものすごく不安定になった時期もあったんだ。だけど、いくら待ってもお前から連絡がくることはなかった。」

そんなことでどうにかなる関係じゃなかったじゃない。私たちは、そんな簡単に終わるくだらない繋がりじゃなかったじゃない。

「でもいろんな経験を重ねて、いろんな世界をみているうちに気づいたんだ。お互いが存在しているだけで、同じ世界に存在しているだけで、それだけでよかったんだってこと。」

あ、そうか。もしかしなくても、私が変わっちゃったんだ。
誰かに盗られることなんてない、永遠の関係のはずだったのに。

「…俺も大丈夫だから、きっとお前も、大丈夫だよな。」

十代は、かさついた声で優しい言葉をくれる。身体の中にあたたかい液体が注がれていく感覚がする。汗がひき、痛みがおさまっていくのを感じる。私は死んだ十代の最後の言葉に包まれている。

「…大丈夫だよ。十代、お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。ずっと永久に、未来永劫、幸せでいてね。またね。」

それだけが私の言いたい事の全てだったように思う。通話を切ったあと、履歴から電話番号を消した。



 汗をかいたのでシャワーを浴びようと思う。明日は買い物に行って、何かを作って食べようと思う。自分が何を食べたいか、考えようと思う。今夜はシーツを替えて、あの音楽をききながら、あの本でも読もうと思う。


窓の外は藍色が広がっており、8月31日の終わりを告げている。

私はこれから、こうして、生活を続けていけるのだと思う。
そうでなければならないから。





半身

2021.08.31


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