学生時代に好きだった女は若くして死んだ。死んでからそろそろ8年、卒業してからは12年も経過しているが未だに脳裏に生きている。あの頃のまんまで俺の中にある。 名無しが死んだ日、俺は何をしていたか定かではない。覚えていないのだ。もうずっと連絡をとっておらず、死を知ったのもその数ヶ月後の話だった。 海が見える街に俺は住んで居る。俺は海が好きだ、あの島を思い出せるから良い。匂いと記憶は結びつき易いというが、ほら、汐風に瞼を瞑ればあの場所にいるみたい。あの時の匂いがする。海辺で燥いだ意地の悪いあの女の、濡れた髪の毛の匂いがする。 こんな記憶を大事に抱えて生きていたって良いことなんてひとつもない。あの女を忘れても苦しいのに、覚えていても苦しいのだから、多分ずっと苦しいままいなきゃなんない。 ベッドに横たわる自分の身体が布に沈んでゆく。隣には寝息と温度がある。時計の音がある。ほら、思い出すだろう。そっくりなんだから。 俺が今一緒にいる女は、美人で、ふくよかで、暖かくて、頭の良い女だ。俺は彼女を理想とし、リスペクトしているし、望んで生活をしている。 でも、ふとした晩とか、街中できいた音楽とか、誰かの喋り方とか、何かしらをきっかけにしていきなりあの女が俺の頭に蘇る。ブスで、貧相で、冷酷で、頭の悪いあの女が、俺の中で恨み言をいいながら笑っていやがるのだ。 名無しは本当に最悪な女だったのに、死んでしまったから俺の中の大事な場所に居続けてしまう。そのために消えたのかと思ってしまうぐらいだけど、もう知る由もない。そんなところも本当に最悪なんだよな。本当に最悪。 朝目覚めて、美人で巨乳の彼女が素っ裸で横に寝ていると気分が良い。朝食にサクサクのクロワッサンとバターコーヒーを摂って、トマトを一口。寝室の窓を開ければ、夏の終わりの景色が並ぶ。黄金色のビーチには遊泳客はおらず、誰かがパラソルを片付けている。 海の底みたいに深い空はまだあるのに、そこにはもう誰もいない。奇声にも似た叫び声をあげながら俺を狂わせていった若い女は、あの女はもういない。なのに、いつまでも俺の中に根を張っていて、いつでも簡単にあの風景を呼び起こされてしまう。 「もう夏も終わりだねぇ」 新鮮な空気に目を覚ました女がベッドの中で呟いた。 「あとで、冷やし中華食べようねぇ。まだ、残ってるから」 「、うん」 生成色のカーテンが揺れる窓枠の前に立ち、耳を澄ませて目を閉じて、匂いを感じて、ほらやっぱり、いてはいけない奴が俺の中にいる。 「そいえばさぁ、十代、お誕生日おめでとうだねぇ」 この女の声は、あの女の声によく似ている。この匂いは、あの場所の匂いによく似ている。肌を撫でる風は、あの場所から巡り巡ってきた同じ風だ。くだらない、どうでもいい、つまらない、何にもならない記憶なのだ。それが俺の中にいつまでも生き続けている。 「うん」 俺はもう大人だから大丈夫だけどさ。あと何十年も、存在しないお前のことを考えなくちゃならないのか。 お前がこんな地獄を味わうくらいなら、先に死んでくれてよかったかもな。 後味の悪いお前の存在しない、天国みたいな地獄は今日も素晴らしく晴れていて、みんなが幸せそうに暮らしているよ。 これで満足か? 夏の終わり 2020.8.31 |