十代の肩は甘くきたない匂いがする。赤ちゃんの性器みたいな、キレイなわるい匂いがする。知らない人のお母さんの清潔な手のひらみたいな、そういう匂い。


裸で寝そべる彼の尻の丘をそっと撫でて、そのまま腿の裏をさすり、尻の割れ目をなぞる。十代はスマートフォンのゲームに夢中で、私は彼の美しく若く健康な身体に夢中だった。

彼の三温糖のような色をした太腿の裏には、小さく丸く焦げたほくろがひとつ。膝下には黒猫みたいな毛が、細々と纏わりついている。20歳の男の子の身体にしては線が細く、薄く、中性的であり、私の脚の方が毛が濃くて、太いのではないだろうかというくらいなのだが、かといって女性的というには、あまりにも野蛮に、雄の肉付きをしている。
私が身体を静かに執拗に観察するのを、十代は気にも留めず、小さな画面の中を動く自分の分身を、人差し指で一生懸命に操作し、時折歓声のような小さなうめき声をあげたりしては、風呂上がりの休息を楽しんでいる様子だ。

私が十代と出会ったのは、中学二年生の新学期。家庭の都合で彼の学校に転校した私は、ただのクラスメイトという関係のまま卒業した。
中学時代の彼は、クラスから浮いた存在だった。というのは、悪い意味ではない。その時から十代にはなんだか人を引きつける力があり、私たちクラスメイトは、彼の言うことや為すことに不快な感情を抱くことが全くと言っていいほどなかった。とはいえ、彼は別に正しいことをしたり、人に褒められることをしていたわけでもない。それなのに、例えば寝坊して昼の給食の時間に登校してきたり、人に物を借りてそれを壊してしまっても、なぜだかそこには笑いが起きるような、そういう軽やかな男の子だった。

卒業後、全寮制の高校に進学したと聞いてからは、それきり十代の噂を耳にすることはなかった。成人式の頃に開かれた中学の同窓会にも姿を見せず、光を失ったかつてのクラスはなんだか味気ないお粥みたいに気の抜けたものだった。ひとりくらい、彼は今どうしているだろうという話題を出しても良かったかもしれないが、それもなかった。かつて交際していた女の子がクラスにいたためだ。彼女は卒業直前に、十代に物凄くひどい振られ方をしたという。彼女に気を遣ってか、そんな十代に幻滅してか、誰も進んで十代の話をしたがらなかった。絶対的に必要な人間が排斥された同窓会は、とても不自然な心地がする空間だった。


その時のことを十代に話すと、へぇ、とか、はは、とか、まるで興味のなさそうな返事しかなく、面白くないので、中学の頃の話はあまりしない。そのかわりに、私たちの空白期間である、高校時代の話をよく聞かせてくれた。

おかげで、会ったこともない彼の友達のことをまるで旧知の仲であるかのように、私はよく知っている。かつての中学時代のクラスメイトや、彼の淡い初恋相手すら知らないような、十代の色々な事を、私は、私だけは知っている。


十代の肩甲骨の間に鼻を埋めて、溝を舌で舐めた。汗を流したばかりなのに、彼の肌は、人間の特別な味がする。十代の体から発せられる、十代の水分。それを顔に押し付けると、とても安心した気持ちになる。

「きたねーだろ。風呂入ったばっかだぞ」

私に目もくれずに、スマートフォンの中の敵にポインターを合わせて、人差し指でタップして銃を撃っている。ズガガガ、という音とともに、筋骨隆々の十代の分身は血飛沫にまみれた。撃たれて負けてしまったようだ。

「うわ、負けたんだけど。まじサイテー。お前のせい。まじ無理」

「汚いと思うの?私のべろ」

「きたねーよ。俺のケツの穴舐めたじゃん」

「舐めて欲しくなかった?」

「いやー。さすがに舐めすぎだろとは思った」

「言ってよ。ストップかけてよ。わからないから」

「俺のケツうまいからなー。毎日うまいもん食ってるからウンコもうまいっしょ」

「うん。うまい〜」

「でも本当はケツ穴よりキンタマしゃぶってほしい。キンタマのほうが感じる」

「それ前と言ってること違うじゃん」

十代はスマートフォンから手を離して、私の頭を軽く小突いた。

「お前の記憶違いだよぉ」

さっさと毛布に包まってしまった彼にならって、電気を消して隣に身を寄せた。彼の裸の背中に自分の裸の体をくっつけると、十代の体温と水分が、私の中に入ってくる感覚がする。私はずっとこれが欲しかった。彼に私の全てを奪われたあの日から、ずっとこれが欲しかったのだ。




私達が再会したのは、ちょうど一年前、地下鉄の改札前でのことだった。彼は群を抜いて顔の作りが優れているわけでもなければ、人よりも背が高いというわけでもなく、かといってとっても足が長いとか、センスのよい服を着ていたわけでもなかった。どちらかというと万人には受けない顔だし、背も男性の平均より低いくらいで、その時着ていた服なんかは、浮浪者のようである意味目立っていたかも知れない。
でも所謂、放たれる存在感というか、堂々とした姿から来る空気感のような、そういうものがあって、人混みの中でも私は一目で遊城十代を認識することができた。

「十代、ひさしぶり」

恐る恐る声をかけてみると、十代は驚いた顔で、エッと言った。

「えっと、お前、名無しじゃん。何してんの?」

「それはこっちの台詞なんだけど。生きてたんだね、同窓会来ないから皆んな心配してたよ」

「いや、それは嘘じゃん。俺、元カノに恨まれてるし、アイツのおかげで誰とも連絡とれなかったし」

「そうなんだ。確かに、みんなが心配してたっていうのは嘘。ごめんなさい」

「でもお前は心配してたってことだろ。てか、よく俺のこと見つけられたな」

「十代、目立つから」

そう言うと、突然私の左手を取って握った。

「今からお前んちいこ。それかホテル。あと腹減った」


帰宅ラッシュの地下鉄の改札前で、十代が私の手を取り、私の目を見ている。私はすぐにポケットのスマートフォンを取り出し、当時付き合っていた人に別れを告げる一言のメールを送った。それからは何もかもがあっという間に早かった。新しく部屋を借りて、仕事も辞めて、私は十代と毎日を過ごすようになった。




十代は不思議とお金を沢山持っていた。アカデミアを卒業してから海外を放浪する中で、支援者を多く見つけたのだと言う。

私は彼に誘われて、パチンコや賭け麻雀、競馬などにも連れて行ってもらった。どれもが初めてのことで、理解できないことだらけだったが、十代と一緒だとなんでも楽しかった。沢山勝った時は、夕ご飯においしい物を食べたし、負けた時も、負けた腹いせにおいしい物を食べた。
新発売のゲームがでると、発売初日に電化製品屋に並び、二人で三週間も部屋に引きこもった事もあった。このゲームがしたくて日本に帰ってきたんだと十代は言っていたが、それは嘘だ。多分、何か辛いことがあって彼は日本に逃げてきている。だから十代はアカデミア卒業後のことをあまり話したがらない。なので私もあまり聞かず、追求しないようにしている。

寝て起きて、食べて、今日は何しようかと話すのが、なんだか秘密の悪だくみをしているようで気持ちかった。毎日好きなことして遊んで、寝ても覚めても十代とふたりだった。ちょっと嫌なことがあっても、十代の顔を見ればすぐに忘れてしまった。動物的本能的に、私達は若い日々を貪った。



ある夏の日、十代は百貨店の買い物に私を連れて行くと言った。電車に乗って新宿の伊勢丹まで行くと言う。外は蒸し暑く、できれば人混みを避けたい私は、地元の駅ビルではダメなのかと問うたが、彼は首を横に振って頑なだった。

想像通り、平日の昼間にも関わらず新宿は人でごった返していた。世間は夏休みだが、この街にはそのようなものは関係ない。平日も休日も、昼も夜も、いつだって人が溢れている。

十代は慣れた足どりで私を伊勢丹へ導いた。手を引かれながら街を歩いていると、不思議な感じがしてくる。まるであの頃憧れていた十代の彼女になっているかのようだ。私は中学時代、彼女のことがずっと羨ましかった。他の多くの子と同じように、私もまた十代に目を奪われていたのだった。

「十代、臨海学習の時のこと覚えてる?」

自分が生涯ずっとずっと大切にしてきた記憶について、恐る恐る聞いてみた。きっと十代は覚えてなどいないはずだけど、もし覚えてくれていたら、素敵だと思った。でもそんなことは無いだろうな、とハナからわかっていたのだけれど。

案の定、彼は「んー?あー」なんて、気の抜けた返事をして言葉を誤魔化した。街の喧騒で私の声がよく聞こえなかったのかもしれないし、本当に全く覚えてなかったのかもしれない。とにかく私もそれ以上は喋らず、黙って後に続いた。

伊勢丹の中は冷房が効いていて気持ちが良かった。お金を持ってそうな婦人や強そうな身なりをした男女で化粧品コーナーは賑わっている。
結局何を買うんだろう、と不思議がっていると、エスカレーターを上がって二階にある洋服のフロアへと連れてこられた。そこでは水着のフェアをやっており、色とりどりの可愛らしい水着が丁寧に丁寧に展示されていた。カップの部分にカラフルな花びらが沢山縫われているインポートの水着や、都会的で洗練されたセクシーなハイブランドの水着など、見ているだけで素敵な気分になるような、どれも目を引かれるデザインだった。

「選んで、水着」

十代はそう言うと、先に買い物してくるから、その間に選んどきな、と付け足してその場を去ってしまった。
一緒に選んでくれる気は無かったようなので、仕方なくひとりで水着の選別作業に入った。スタイルが優れているわけではないため、自分の好きではない部分をカバーしてくれるような水着を優先して探していると、綺麗な女性の店員さんに声をかけられた。

「海に行かれるんですか?それともプールでしょうか?」

「あの、それがわからないんです。ただ選べ、と言われただけなんです」

私の言葉に店員さんが笑ってくれた。感じの良い店員さんだったため、色々相談に乗ってもらい、あっという間に水着を一着選ぶことができた。とても落ち着いた印象の、ギンガムチェックのビキニだ。私のような年代の女の子は、流行りの派手で奇抜な水着を選ぶことが多いそうで、少し大人っぽいですね、と言われたが、好みなので気にしなかった。

しばらくフロアを眺めていると、大きなショッピングバッグを抱えた十代が現れた。あまりにも大きくて重そうだったので、何を買ったの?と、ショッピングバッグの中身を覗こうとしたが、なんでもないよと言ってまた誤魔化されてしまった。私へのプレゼントだったら、なんて一瞬考えたりもしたが、なんとなく違うんだろうなとわかってしまい、そのことを追求することも辞めてしまった。

一着の水着を十代に示すと、彼は頷いて、会計を済ましてくれた。

「結構地味だな。でも、お前っぽい」

購入した水着の袋を私へ渡しながら、十代は言った。私はその言葉になんだか無性に悲しくなってしまって、何も言うことができなかった。


やっと家の玄関へつくと、抱えていた大きな荷物を降ろした十代は、深いため息をつきながら疲れたぁと言った。

「来週海行くから、そのための買い物でした」

「最初に言ってよ、わけわかんなかったよ。どこの海行くの?」

「決めてない。今から決めよ。色々ある」

十代はショッピングバッグのひとつから、くしゃくしゃになったいくつかの旅行パンフレットを取り出した。
沖縄、グアム、サイパン、ハワイ、プーケット、済州島、バリ島、中には鎌倉も紛れ込んでいた。

「十代は、どこ行ったことある?私はあんまり海外旅行は、行ったことない」

「俺はだいたい行ったことある。だから名無しの行きたいところに行こう」

笑顔でそう言われると、なんだか気が引けてしまった。旅行は楽しそうだけど、選択権を委ねられると困ってしまう。そんな私を見かねて十代は、ハワイは良かったよ、とパンフレットをパラパラと捲る。
それは誰と行ったの?いつ、行ったの?何をしたの?なんて考えて悲しくなっても十代は私を慰めないだろうし、嫌な女にわざわざ成り下がって聞く気も起きず、ただ黙ってパンフレットを眺めた。
十代が行ったことないとこがいいな。と呟くと、鎌倉は行ったことないかも、と言ったのを聞き逃さなかった。

「じゃあ鎌倉にしよう。近いし日帰りできるね」
「え、いいのかよ。鎌倉の海って、人凄いんだろ」
「いいの、鎌倉がいい。由比ヶ浜にいこう。温泉宿に一泊してもいいかも」

私が選んだのだからいいでしょ、と半ば強制的に鎌倉へ決定させた。十代は海外旅行に行く気満々だったようで、ちょっと不服そうだったが、私が決めたんだと強調すると折れた様子で、鎌倉のパンフレットを捲った。




その日は快晴だった。鎌倉の海は案の定若者のグループで賑わっており、少し苦手な雰囲気をしていた。ビーチの端までの長い距離をひたすら歩くと人が疎らなエリアがあり、少しはマシだろうとそこを拠点にビーチパラソルを立てた。
私はあの時選んだ水着を纏い、十代は愛用しているという深い赤色のサーフパンツを履いている。

実は、鎌倉の海へは一度だけ遊びに来たことがあった。十代とこういう関係になる前に付き合っていた人とその友達と私の友達の何人かのグループで日帰りで遊んだ。その誰一人とも今は連絡をとっておらず、遥か遠い過去の、他人の記憶のように感じる。

十代は海の家でトロピカルジュースと焼きそばを買ってきた。それを二人で食べながら、とりあえず海を眺めた。青黒い海岸線の向こうには、ただ晴れただけの空があるばかりだった。

「私、屋台の焼きそばって好き」

自分で一口食べた後、次は十代の口元へ一口運ぶ。十代は素直に口を開けて、私の箸が運ぶ焼きそばを食べた。
こんな時が一生続けば良いのにと思う。それは一生続かないと知っているからこそ思う。私はそのうち、十代にとって価値のある女の子ではなくなる。こうしているうちにも、可愛くて健康で若い女の子達が私の立場を追い上げてきており、私はなすすべも無く押し出されて行くのだ。

私は十代のために全てのものを捧げられるし、全てのものを捨てられる。けれど、それだけじゃ十代の特別にはなれないと思う。十代にとって私は、全てのものを捧げられて、全てのものを捨てられる対象ではないからだ。

焼きそばを食べ終えると、十代は私の左手をとって海へ歩き出した。十代は楽しそうにはしゃぎながら、海の光を背にして笑いかけてきた。彼の金糸のような髪の毛が太陽に乱れ、熱い肌は紫外線を跳ね返しながら照り光る。白い牙が好意的に剥き出しになる彼の歪な笑顔は、私の人生の中で最も美しい心のよすがとなり、永遠に執着し続けることを義務付けられるはずだ。

「私、十代が好き」

「俺も名無しが好きだよ。急にどうしたんだ」

「ううん、なんでもない」

十代とずっと一緒に居たいという当たり前の感情が、自分の醜い欲望だと知っている。一瞬でも一緒に呼吸をできたことが、一秒でも長く話しをできたことが、それのひとつひとつが私にとっての奇跡のはずなのに、ずっと続いて欲しいだなんて烏滸がましいことは思いたくは無かった。

「この海って、ずっと行った先にデュエルアカデミアがあるんだよね」

十代と二人で海を眺めていると、何もかもが幸せすぎて、気がおかしくなりそうだ。

人目も憚らず、十代は私にキスをして、海の中へ導いた。浅瀬で立ち止まっている私に、ガキじゃないんだぜと言って私を更に海へ海へと引っ張った。胸まで浸かるところまで来ると、周りに人はいなかった。押し寄せる波も、最初はひどく怖かったが、十代に抱えられていると不思議と慣れてくる。

十代が私を赤ちゃんのように抱えて、私は波が来るたびに彼の首にしがみ付いた。十代は私の反応を面白がり、陸へ上がって休憩しても、また何度もこの遊びをさせられた。

海に遊び疲れて、くたくたの体を引きずって宿に戻ると、夕食の用意がされていた。鎌倉からは少し離れていたが、こじんまりとした品の良い旅館だ。

夕食は地元の海鮮を使った和食をいただいたが、どれも美味しくていつもより沢山食べてしまった。

浴衣を纏った十代も新鮮で、私が似合うね、いいね、としつこく褒めると、十代は照れながら、着方間違ってるかな?と不安になっていて、その様子が可愛くて、スマートフォンで沢山写真を撮ってしまった。

露天風呂が付いて居る部屋を予約したのは正解だったようで、就寝するまで十代はひっきりなしに風呂に入った。私も付き合って何度か一緒に入ったが、夏の暑さに逆上せてしまって敵わなかった。あんまり沢山入るので、そんなに露天風呂が好きだったの?と聞くと、アカデミア時代の寮の風呂と似ていて懐かしいのだと言う。


昼間は慣れない筋肉を使って泳ぎ疲れて居るはずだったが、温泉でリラックスするとだいぶ体力が回復したのか、どちらからともなく、十代は横になって居る私に馬乗りになり、私は彼のペニスを口淫する。私は十代に限って、口淫が好きだ。彼の一番危うい部分を、私の一番強い部分に委ねられる感覚は、彼が私を、私が彼を、受容して居る証明になる気がする。

「十代のこれ、ずっと舐めてられたらいいのに」

「はは、俺も、ずっと舐めてて欲しい。そのうちふやけそうだけど」

射精をしたあと、そう冗談めかして言ってみたけれど、十代はおかしそうに笑ってから、また一人で温泉へと入っていった。

湯船から出ると、さすがに満足した様子で寝床に入ろうとする十代が、何かに気づいて、アッと漏らした。

「やべ、忘れるとこだったわ」

そう言って、ボストンバッグから小さく綺麗に包まれた橙色の箱を慎重に慎重に出してから、私に手渡してくれた。

「これやる。あの時買ったんだ」

箱に描かれているブランドのロゴを見て、あの時というのが伊勢丹に行った日を指すことに気づいた。恐る恐るリボンをほどいて中を開けると、細かいモチーフが施されたピンクゴールドの指輪が入っていた。単なるプレゼントだと理解してはいるものの、嬉しすぎて、しばらく固まってしまった。

「これ、サイズ合わなかったら直してくれるって。ここのところはダイヤで、ここのパールが太陽をイメージしてるんだと」

十代は店員の受け売りかのようにデザインを解説してくれた。洗練された上品な形のそれは、それなりに値段のするものだとすぐにわかり、高かったんじゃないか、とおずおず聞くと、ついでだから大丈夫だよ、なんて笑って、私が指輪をはめる前にそそくさと横になってしまった。私もなんだかもったいなくて、とにかく箱にしまって、嬉しい気持ちにドキドキと胸が高鳴ってしまい、なかなか寝付くことができそうになかった。

「十代って、こういうの選ぶの得意?すごく好みのものだったからびっくりした」

「全然得意じゃねーよ。喜んでくれたなら良かった。あの指輪、俺だと思って大事にしなさいよ」

「うん、結婚指輪のつもりでずっとつける」

私が言うと、はは、それはだめだろう、と笑った。私はその言葉を無視した。

興奮で寝付けない私は、十代の背中に寄り添って言った。

「ねえ、ひとつだけ、秘密教え合いっこしよう」

「ああ、いいよ。なにがいい。今日はなんでも答えてやるよ」

「本当に?やった。何にしようかな」

私は更に胸が鳴った。聞きたいことは沢山あったが、どれも彼に聞きづらいことだった。なんでも答えると言うのは嘘だと思う。ただひとつだけ、答えてくれそうな質問をすることにした。

「中学の時、あの子のことどうやって振ったのか教えて」

私が好奇心を剥き出しにして聞くと、十代はブハッと笑った。
電気を消した暗い部屋に、彼の肌のしっとりした感触と温泉の落ち着いた匂いが鼻をくすぐる。

「確か、アナルセックスしようとしたら、途中で無理って言われて、それで振った気がする」

あまりの衝撃回答に、私も釣られて笑ってしまった。そういえばクラスの誰一人として、事の真相は知らないようだった。確かに、そんな振られ方をしたなんて、誰にも言えはしないだろう。まだ中学生だった彼女がそのようなことを求められ、途中まで頑張ってしまったという事実が、少し不憫に思える程だった。
同時に、あの時私が十代と付き合っていたらいくらでもしてあげられた確信があるのにと、どうしようもないことを考えてしまう。

「そんなことなら、早く教えてくれたらいいのに。なんで勿体ぶるのよ」

「別に勿体ぶってねーよ。聞かれないから答えなかっただけ」

確かにそれは一理ある。私はいつも勝手に彼の思考を先回りして読んで、勝手に傷つくと踏んで、彼のことを知るのを避けてしまっていたのだ。私の悪い癖なので、今後はできるだけ色々聞いてみてもいいかもしれないな、と思った。

「じゃあー、俺の質問。中学の時、俺のことどう見えてたか教えて」

なんだか十代らしくない質問だったが、答えは言うまでもなかった。

「キラキラしてたよ。一番キラキラしてた。一番正しく見えてた。本当はあの頃からずっと好きだったし憧れてたよ。キモいかもしれないけど、中学卒業してからあの駅で会うまで、本当はずっと好きだったんだよね、十代のこと」

好き、と言う言葉にはどこか語弊があるような、なんだか他人の言葉のようで、適切な表現ではなかったかもしれないが、他にどう言う風に言えばよいのかがわからなかった。自分で言っておいて、なんだか陳腐で気持ち悪くて、吐き気がして、言わなければ良かったと後悔してしまった。

「そー、そんな時から俺のこと見つけてくれてたんだなー、すげーなー名無しは」

「ごめん、忘れて。やっぱり今の全部嘘だから」

「なんで?別にキモくないし。普通でしょ」

すごいと言ったり、普通と言ったり、反応がよくわからなくて思わず眉根を寄せた。十代は時々何を考えてるのかわからない。自分が表現した言葉の本意が彼に届いているのか、いないのかさえわからない。

「臨海学習のとき」

「あー?」

「あの時、私、転校したてで指定のスクール水着を持ってなかったから、仕方なく家にあった水着を持って行ったの。指定のスクール水着を買うには間に合わなかったし、その水着も、ちゃんと中学生が着るようなよくあるデザインだったし、親から先生にも許可をとってもらってたんだけどね」

十代は、んお?とか、んん、とか、曖昧な相槌を返す。

「それで、バスで海浜公園まで行ったじゃん。で、その場になって、いざみんなが指定の水着を着ている中で、一人だけ違う水着を着ることを強いられてる気がして、怖くなって、海には入れなかった」

「ああ、あの、赤いラインの入った水着ね」

私はびっくりして、言葉に詰まってしまった。

「え、覚えてるの?」

「まぁー、なんとなくだけど、お前と二人で話したのってその時くらいだったし」



あの水着を着ることはできたが、同じスクール水着で統一された生徒の中に入ることがどうしてもできなくて、浜辺で一人見学したのだった。
その時、十代が先生の目を抜け出して私の横へ来たのだ。

十代は授業に飽きて暇だったのだろう、腰を下ろして私に話しかけた。

「なんで泳がないの?生理?」

屈託無く問いかけてきたのを覚えている。私は悲しい気持ちだったので、入りたくない理由を言うのも恥ずかしくてうまく話せないでいると、十代は私の被ったタオルに隠れている水着がみんなと違うことに気づいた。

「その水着いーね。みんなと違ってて。すげー似合ってる」

そう言って笑って、何事もなかったかのようにまたみんなの輪に戻っていった十代の後ろ姿を、鮮明に覚えている。

この人は、人と違うものを良いと思えるのだと言うこと、それを嫌味なく人に伝えることができるのだと言うこと、些細なちっぽけなきっかけだったけれど、私はその頃から十代を信奉し始めたのだった。



私は、恥ずかしくて言葉を選びながらもあの時のことを話した。十代は、懐かしいな、でも俺、お前の体まじまじと見てただけだったけどな、と言っておどけてみせた。それはなんとなくわかっていたので、私も笑ってみせた。

話し疲れたのか、いつのまにか十代は寝息を立てていた。私も彼にならって、寝付く努力をしてみたが、今日の楽しかった記憶に心がまだ落ち着かない。いつも十代は私より早く寝て、私より遅く起きる。私は、夢の中にいる十代の隣で一人で思考するこの時間が、いつも少しだけ寂しかった。






朝目が覚めて、スマートフォンの時計を確認すると既にチェックアウトの時間が近かった。朝食を食べ損ねてしまうと思って飛び起きたが、隣の布団に十代の姿はなく、ぐしゃぐしゃに冷えた布団が横たわっているのみだった。昨夜から、なんとなく嫌な予感はしていた。


部屋についた露天風呂を覗くと、脱衣所に彼の着ていた浴衣が無造作におかれ、朝風呂に入った形跡があった。彼の使った髭剃りと歯ブラシがゴミ箱の中に押し込まれており、一旦手に取って見つめてみてから、やはりゴミ箱へと戻した。



旅館に併設されたレストランの中に朝食を食べる彼の姿を探したが、やはり見つからなかったので、黙って一人で焼き魚とご飯を食べた。
オーシャンビューの景色を眺めながら一人で食べる朝食は、しっかりとした味付けでそこそこ美味しかった。

昨日遊んだ海が見え、既に海水浴客が多く集まり賑わっている様子だった。


朝食を終え部屋に戻り、今一度彼の荷物が無いか確認したが、何も残されてなどいなかった。こういう日が来ることは何度も脳内でシミュレーションしていたので、私は意外と冷静でいられることができた。というより、考えても仕方がないのだ。もう何を考えても、答えを得ることができないのだから、何も意味がなかった。


自分の身支度を整えようとバッグを開けると、中には大量の一万円札がねじ込まれていた。テーブルの上に大切に置いていた指輪の箱を手に取り、その上からバッグへと押し込んだ。


簡単に部屋を片付けると既にチェックアウトの時間になっていたので、一人で部屋を出た。


受付へルームキーを返すと、支配人の男性がにこやかに「お代は頂戴しております、ご利用ありがとうございました」と告げた。私も小さく一礼しながら、ありがとうございました、とボソッと呟いて、旅館を後にした。




タクシーで帰宅しようかと考えたが、なんとなく電車を乗り継いで帰ることにした。あまり早く帰りたくなかった。


江ノ電に乗って鎌倉駅まで行き、そこからJRに乗り換えて新宿方面へ向かった。


江ノ電から見える古い町並みの光景に、なんだか懐かしいような気持ちが込み上げてくる。十代とふたりで過ごす日々の中で、私は孤独では無くなったのではなく、ただ単に孤独というものを忘れていただけだった。孤独は変わらず誰の心にも絶対的に存在していて、他者の存在がそれを見えなくしているだけであった。忘れかけた頃に思い出して、その感覚が懐かしく、なんだか驚いてしまう。あ、私は孤独だったのだと。





自分の部屋に戻ると、彼の荷物はほとんど残っていなかった。唯一残っていたのは、彼が伊勢丹で買った大きなショッピング袋だった。中身は入っておらず、領収書にはスーツケースと書かれてあった。


結構、無駄遣いばかりだったし、お金が底を尽きたのかもしれない。もしかしたら私の将来を思って、離れていったのかもしれない。あれかもしれないし、これかもしれない、というのは沢山あったけれど、どれが正解なのかはわからなかった。


カーテンは陽を遮りながら金色に光り、ワンルームの小さな部屋に午後の微睡みを与えていた。十代がくれた指輪は左手の薬指には小さくて入らなかった。隙間から漏れるオレンジ色が指輪に反射してキラキラと綺麗だった。








私はそれから、なんとなく就活して、なんとなく就職し、なんとなくの人と出会って、なんとなくの結婚をした。


なんとなく歳を重ね、なんとなく生きていて、なんとなく死んでいくのだと思うけど、それが私に課せられた人生なのだった。


まだ私の心の中にはあの幸福な日々が頑固な汚れのようにこびり付いて剥がれないでいる。王子様が迎えに来るのは私では無いのだということを、何十年後の年老いた死ぬ間際の私はきっと今の私に伝えたいと願っているはずだ。

あの全てが幻みたいに、私は幾度となく反芻する。その度に、地獄のように幸福な気持ちが呼び起こされて、まだなんとなく生きていけるのだと罰された。






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