夏の星の下ではドビュッシーを聴いていたい。名無しさんと俺という完璧なふたりの間に流れるに相応しいメロディ。 出来るのならば今このまま押し倒して、無理やりにでも一つになりたい。夜はあまりにも暗すぎるので、名無しさんの身体の中に隠れていたい。 でも俺は決して、そういった類のことを思いあぐねても、口に出したりなんかしない。俺のそんな、俺らしくない言葉たちは、名無しさんは望んでいないとわかっている。 風がなびくと、隣に座る名無しさんの髪の毛が俺の頬を掠めた。俺はそれだけで夜を充足したものにすることが可能である。 しかし素知らぬフリをして、おどけて見せることができる。何故ならばそれを名無しさんが望んでいるであろうから。 彼女が俺に求めているものが、俺にはわかってしまう。だから俺は、お望みの通り、明朗快活なふりをするし、完全無欠だと言い聞かす。 名無しさんは俺のことを太陽みたいだと言った。だから俺はそのようになりたいと願うのだ。 名無しさんの望むことならなんでも叶えてあげたい。例え彼女が俺の本質なんか見ていなくとも、俺は一生道化を続けて名無しさんを幸せにしてあげていたい。 これを愛と呼ぶ意外にあるだろうか。 「名無しさん、星座知ってるのか?」 「あんまり知らないかな。あ、今なにか光らなかった?」 「いや、今のは飛行機だろ。まだ流星群のピークじゃねーし。」 「本当に見れるかな?」 「ちょっとー、名無しさんが俺のことを誘ったの忘れてねぇ?」 「冗談だよ。きっと見れるよ。楽しみだね。」 「うん。でも俺もう別に見れなくてもいいよ。」 「えー?なんでよ。」 「誕生日とか、別に気持ちだけでいいし。つーか名無しさんといるだけで嬉しいからもういーよ。冷えてきただろ?」 「でも私見たい。」 さりげなく装ってみても、彼女は「俺」に気付くことはない。彼女にとっての俺は自分を生かす太陽であり、そんな俺が、名無しさんを愛しているだなんていうくだらない感情は、名無しさんにとっては信じられない事実であるし、疑いようもない事なのだ。 俺は完璧でいなければならないと思う。名無しさんの思う理想の俺でありたいと思うし。だから本当の事は言わない。そうでないと名無しさんも俺も、きっと救われる事はない。 名無しさんが俺を信仰するから、だから俺は神話の偶像として存在したい。 「夏も終わりだね。セミの鳴き声も減ってきたね。」 「あー、ホント。てか毎年この日って、夏休みの宿題に追われてたの思い出すわ。」 「自分の誕生日に山積みの宿題をこなすって、遊城くんらしいね。」 「母さんや父さんは仕事で忙しかったし、誕生日なんて実際思い出ないよ。」 「そっか…ごめんね。」 つい暗い話が口から滑ってしまい、不安になった。意外な俺ではあってはならないのに、俺を構成する「俺」の部分が、彼女に警告を出し始めている。理解や抱擁を、体のどこかで求めている。でも理解を抱擁をするのは、俺の方であり、彼女ではない。 名無しさんの全てを肯定していたい。無論この世で俺だけが。 「遊城くんって、いつも人が周りに集まってくるような、賑やかなタイプだから、きっと暖かい家庭で育ったんだと思ってた。」 俺はこういう、なんて答えれば正解なのかわからない時、額にある空想のスイッチを押す。そうすると、自分がどう振る舞えば良いのかがわかる。 俺はいつの間にか電源が切れていた「彼女の望む遊城十代」のスイッチを再び押した。 「いや、実際そうだよ。放任家庭というか、自由主義だっただけで、誕生日は友達に祝ってもらうからというのもあったしさ。まぁ毎日が誕生日みたいに過ごしてた俺だから、誕生日が特別!というのもなくて、」 するする吐かれる嘘がひどく滑稽に思えた。 自分の必死さが悲しかった。 彼女といると、自分は孤独だと再認識させられる。 それと共に、あるべき自分を演じることができる。 「…遊城くんが、羨ましい。」 羨む部分なんて何もないのに、彼女も彼女を演じてくれる。だから俺は救われる。人から羨望される俺という状況を享受することができる。俺と名無しさんは、お互い理にかなった関係だ。俺と名無しさんは対の存在なんだ。 空は黒いビロードを敷かれた上にホコリのような星が点々と散っている。夏の終わりは肌寒く、虫の音も遠くで微かに聞こえるばかりだ。 俺は昔、とても小さかった頃、何もかもを諦めた。 自分が救われようともがくところで、俺の求めていた明るい生活という過去は、手に入れることができないと理解できた。 だから俺は、人よりもめいいっぱい明るく振舞おうと努めたし、それによって、周囲が俺を仲間にいれてくれると信じてきた。 そして実際に、俺は誰よりも「真ん中」で自分を演じることができるようになったのだ。あの頃のような惨めな俺はこの世に存在しない。それなのに、彼女といると、あの頃の俺が俺の肉の中から飛び出てきそうになる。 「遊城くん、あのね、私遊城くんが好き。」 だから俺は自分がどうすべきか、よくわかる。この女の子を抱き締めて、キスをして、俺は本当はこんな人間なんですと、自分の孤独を彼女に押し付けたりはしない。そうしたいと願ってしまうことを、しなければ救われる。俺は誰かの太陽でいられる。 「…俺は、そういうのよく、わかんねぇ。」 ごく自然に、そう呟けた。自分を慰める道は閉ざせばよいのだ。よく心得てきたことだ。 本当の気持ちを言えば、彼女は俺に失望するだろう。名無しさんは女神ではない。ただの普通の女の子だ。俺が俺を打ち明けるには、値しない女性なのだ。 俺はそう言い聞かせて、またひとつ、何かを諦めた。 「遊城くん、そんなことまで嘘をつかなくてもいいんだよ。」 夜に星が流れることはなかった。 彼女もまた何かを諦めたように、俺の元を離れ、闇の中へ溶けていった。 俺はまた、俺でない誰かを演じたにすぎない。 夜闇の中で、俺は恒星のように発光することもなく、そこに存在していた。 皮膚の中では血がめぐり、肉が満ち、呼吸をするひとつの生き物だった。 喜劇 160831 |