お前のその手が、私を撫でた。お前のその指が、私の髪を梳いた。その目が私を満たした。その腕が私を抱き締めた。その耳は私の言葉を聞いたでしょ?その鼻は私を香ったでしょ?その皮膚は太陽に焦がされて、焦がされて嗚呼…君はその時美しかった。 その口で、本当に言ったのに。私しかいないって、言ったのに。 「あいつ、結婚するって」 オープンテラス。久しく会った旧友の三沢は中々裕福な生活をしているようだった。心地よい緑がテーブルを囲み、私はアイスココアを口に含む。 含んだココアは静かに喉に染み込んでいった。三沢もココアを一口飲んだ。 知りたかった春の目覚めはそんなんじゃない。でもきっとどこかでそうなると予測していたのだろう。私は静かに問題を受け入れる準備をする。 庭に咲くのはパンジーだろう。きっと三沢はガーデニングを始めたばかりなのだ。改築したばかりのテラスに真っ先に私を招いた。 「彼…は、生きていたんだね」 「やっぱり君は、知らなかったね」 三沢の顔が笑った。卑屈とは思わない。よく見せる笑顔だった。むしろ久々に見れて安堵感を覚えた。 十代の笑顔?それは世界を救った。私の世界を救った存在だった。 でもそれだけなのだろう、彼にとって、私は遊びに過ぎない。ただの盲信的な信者だった。あの若い、彼との日々を反芻する度、私は甘酸っぱく、苦しい気持ちになる。それは私の以降の生活を困難な物にした。 あれは恋だったろうか?それにしてはあまりに、宗教じみていたと思われる。 私は彼に触れるだけで自分の生きる意味を見いだせた。 偶々彼がそれに答えてくれた、十代は気紛れだから、ただ、本当にそれだけの話だった。 「きっと私のほうが綺麗でしょ」 「ああ、そうさ、勿論ね。君が一番美しいよ」 恍惚とした三沢の顔が私に近付く。不快に思ったが、同時に、金のあるのに独身者でガーデニングを好きでテラスを改築した旧友が哀れにも見えたので、同情の笑みで濁して、席を立った。 「送ってくよ」 「要らないよ。近いから」 「怒ってるだろう」 「全然。十代とは元々何も無かった」 「ハハ。嘘だろ?」 玄関に向かうが三沢に腕を引き止められた。手首が熱くて痛い。十代の手は平たく冷たかった。 あの手はもう私の存在を確かめてはくれない。 私は十代を卒業した。 彼は歩行器だった。同時に宗教で、神だった。 きっと大好きだった、彼以上の人間はこの後何億年生きても現れないだろう。私が一番十代を好きで、一番必要だった。しかしそんな彼も所詮は人の子だったという訳か。笑えない。十代の気を引き止められた女がいるなんて信じたくない。そんなのは全部三沢の嘘だ。明日香も十代の彼女の存在をほのめかしていたけど全部三沢の嘘だ。三沢が全部嘘なのだ。 「おっ…と。何も振り払わなくてもいいじゃないか」 「三沢、一緒に死のうよ」 「一発してくれるなら構わない。本望さ」 開け放たれた窓から春風が吹く。それはあの麗らかな日々の物とは大分違っていたけれど、私は生きている。 私は上着を脱ぎ捨てた。 |