夜明けだった。窓の外は薄青く発光し、冷気を含んだ微風が白のレースのカーテンを小さく揺らした。遠くでからすの鳴く声が木霊する。梅雨のじとりとした室温が俺の体に薄い膜を張ったようにまとわり付き、もがいても離れない。ハッとして目を覚まし、時計を掴む。午前四時三十分。自分の横にいた女がいない事に気付く。シーツに触れると冷たい。俺は瓶のジンジャーエールで喉の渇きを潤してからベッドを降りた。

――何してんだ。
――あ…十代。起きたんだ。

 靴がある事を確認してからベランダに出ると、彼女はそこにいた。下着のままでしゃがみこみ、手すりの下の誰もいない路地を見つめていたようだ。俺の煙草を一本くゆらせながら、一目くれる。俺も一緒になってしゃがみこんだ。

――お前煙草吸わないだろ。
――吸わないわ。
――馬鹿、体に毒だからヤメロよ。虫歯になるし。
――私はただ…君がいつも吸ってる味を知りたかっただけだよ。

そう言うと名無しは触れるだけの口づけをくれてから、俺の唇に自分の煙草をねじ込んだ。
明け方とは言っても、梅雨時の朝は変わらずむしむしとしていた。名無しの事は言えず、俺も下着一枚の姿でベランダに出ていた。しかし時間の為か、人目は見当たらない。ふと、こうして名無しの近くに存在できる事はとても幸福だな、と考えた。今なら神様を真っ直ぐな気持ちで信仰できるだろうと思う。俺が生きてきた無茶苦茶な人生の中で、名無しの存在だけはきちんと整頓されて隅に飾っているような、彼女はそういう存在だった。俺は彼女を愛している。彼女は俺を求めている。これ以上の幸福が、果たして世界に存在するだろうか。足りない頭で考える、人は皆目的を持って生まれて来たと言う。なら俺の目的とは名無しを知る事だったのだろう。この言い知れぬ安心感は彼女が俺の人生の辿り着く最終着点の為だ。長い煙を吐いてから名無しを見やると彼女は静かに涙を流していた。俺はぎょっとして煙草をぽろりと落とした。
 隅の枯れ果てた鉢植えに蜜蜂が止まっている。

――もう帰るわ。日本に。

 イタリアまで俺を追ってきて幸福を伝えに来てくれた彼女が、少し涙を流してそう告げた。この幸福は終着点では無かった。

――なんで、何か、だめだったのか、それとも、ふまんがあったのか…。
――ちがうよ。なんでもないのよ。ただ、自分に罰を与えるの。
――罰?
――そうだよ。十代と居るのがあまりにも幸福すぎて、酷い罰が当たるのが怖いの、そういう夢見たの。だから始めっから、自分に罰を打っておくんだよ。もし十代に罰が当たったら、私は生きてはいられなくなる。
――…昨日ヨハンに吹き込まれた?
――そんなんじゃないんだよ。

名無しが笑うので、触れようと指先を伸ばすと、名無しの手がやんわりとそれを拒否した。本当に彼女は行ってしまうのだ。ヴェネチアに行きたかった、舟に一緒に乗って、どこまでも漂いたかった。しかし煌めく日々にも一時終了のチャイムが響いた。ああ、空が割れてしまえば良いと思う。そしたら二人だけその隙間に吸い込まれて、必然を司る神のいないどこか遠い世界へ行ってしまって、名無しの心配なぞ一つ残らず葬り去ってしまえるのに。

――私たちまた会うのよ。
――いやだよ。行かないでくれよ。
――でも今帰らなければ、きっともっと悲しい事が待っているんだわ。

 皮のトランクケースに南京錠が填められた。名無しは涙の筋を洗ってしまってから、会った時とおんなじ白いワンピースを被った。
 路面電車の発信音が遠くに響いている。汗がじとりと鼻の下を濡らした。

――どうかお元気で。


 別れではないのに悲しいのは何だろう。純粋な愛のどこに間違いなんかがあるものか、あってたまるものか。名無しが泣かなくてはならない必然は何だったろう、俺はジンジャーエールを便所に流した。


ああ、そうか、これは俺への罰なんだ。









100621

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