※劇場版ネタ








Morte a Venezia.












彼の存在する背景にサンマルコ寺院はよく似合った。嗚呼、ベネツィアよ。流れる水の間をゆく小さな舟よ。この地は彼によく似合う。とても古典的、そして情緒的だ。

船着場の男にいくらかの金をよこして、私達は一番ボロで狭い舟に降りた。波は無い。男が無言でオールを漕ぎ、私はいじらしく彼を眺め、彼は、切り取られたベニスの海を見つめる。すれ違うふたりが、なんだかとても人間らしく思えてしまって、幸福だなあと呟いた。

海は、少なくとも東京湾より美しい。広がる青には、どこか見覚えがあった。きっと学び舎に似てるのだ。あの、狭くて暑い、毎日太陽が真上を照らす懐かしき小島。私達ふたりはそこで互いを知り、出会い、繋がった。

卒業してずいぶん経つ今、こうやって、愛していた彼と肩を並べられているのだから、嗚呼私は、幸福なのだ、幸福すぎて、まるで罰のような、とにかく幸福なのだ。

「不思議な体験をしたんだ。」

彼は海を眺めながら、進む小舟に身を楽にして、囁くように放った。

「時空を越えたんだ。すげえ人に出会って、すげえ事、してきた。ここで、ベネツィアでさ。ヨハンに呼ばれて来ただけだったのに、なんかまたやべえ事巻き込まれちまって。でもやっぱ、俺のしたかった事ってそういう事だったんだよ。改めて思うぜ。後悔なんて、全然してねえ。」

海に向けていた鳶色の眼が、私に向けられる。とても真っ直ぐな純真の瞳。私は好きだった。君の眼がとても好きだった。

「そしてお前がいた。」

彼は膝に頬杖をつきながら、いつものようにニッと笑った。白く鋭い歯が剥き出しになる。その糸を引く唾液に、歯茎に、めくられた唇の皮に、私は瞬時に欲情したが、その禁忌はもう既に許される年齢でないのを知っていた。嗚呼残酷な時。我を確かに目を閉じて、私はしっとりと頷いた。

「まさかお前が……、お前がさ、ヨハンといたなんて。」

暫しの沈黙。苦痛では無い。倦怠でも無い。ただ、言葉にする事に必要性が無い事をふたりとも知っていたのだと思う。

舟はリド島につく。こないだの事件のせいと時期的な意味でも観光客は少ないようで、ただ多国語が飛び交うのは変わらない。

海はいつみても、美しい。私は暫し目を伏せて、考える。





リド島には一度、ヨハンと来た事があった。在学中から密かに計画していて、彼が元の学校に戻ってからもメールのやりとりなどで連絡を取り合った。卒業を迎えてから数ヶ月も経たないうちに、私達ふたりはここイタリアへ渡航した。見たい風景があった。思い返したい事があった。確信したい事があった。

私達は同じ人を好きだった。私は十代が好きで、ヨハンは十代が好きだった。好き、好きだなんて言葉とは釣り合わない程に、狂おしい程彼を求め、時に冷徹な眼差しで彼を見極めた。

私達ふたりはライバルであり、理解者であり、仲間だった。彼に対してのあやふやな思いを確信できる鏡のような存在だった。ベネツィアに来た私達はリドのホテル・デ・バンに数泊しながら今後を考えた。このホテルは映画で観た時から憧れていて、またヨハンも同様だった。

「十代と来たかったな。」
「俺のセリフだよ。」

ホテルの窓から見渡すビーチにふたりは目を細めて、息を苦しくした。

何処かへ消えるように旅に出てしまった愛の人を、思って思って思うのだけれども、その愛が信仰宗教的な物に近いんじゃないかとか、これはきっと只ならぬ感情なんじゃないかとかを、毎夜討論しつつも、結局互いは人間で最後には体を重ねるのだが、普通と違うのは、片方は一人を思い、また片方もその一人を思いながら果てるという、なんとも珍妙な性交であった。






「建物が立派だな。サンマルコもすごかったけど、俺、ここも好きだ。」

島につくやいなや、彼ははしゃぎまわって街を建築物を探検する。私は後ろについて回って、時には素晴らしい景色の見える場所に案内したり、前回ヨハンと来た時に「十代とまた来たい」と思えた観光スポットに手を引いて、束の間の幸福を心のそこから楽しんだ。ヨハンに対しての罪悪感など、そんなものはこれっぽっちもない。私は彼と、十代とこの地に足を踏み入れたとき、長年の蟠り諸共の、重い呪縛が解けた気がした。私は既に、そしてヨハンも、自己の抱く愛の種類に気付き始めている。それが変化するものとも知らなかった幼い私の面影は、ベニスの夕焼けに溶ける。もう日が暮れてしまう。


「日没だ。」

夕暮れ、ホテル・デ・バンの目の前のビーチに辿り着く。私が意図した。どうしても証明したいのだ、この確信した愛が、この世の物であるのだと、もう一度、知りたいのだ。

「海に入りなよ。私が靴を持っていてあげる。」

そう言うと十代は、下着以外の全ての服を投げ出し、少し成長したその美しい体躯を堂々と見せつけた。しかしもうそこには、少年の日の面影は、やはり無かった。

抜け駆けをした私に、ヨハンは一体どんな反応をするだろう。私の帰りを待つ、多分苛立ちながら貝の沢山入ったシチューを作って待ってるであろう彼を思って、私の胸は優しく鳴った。


夕陽を背に、十代は水浴びをする。人は、私達の遠く後ろのパラソルに腰掛けた老人と、果物売りの店仕舞いの支度を始める男が何人かいるだけで、海岸は静かな波の雑音を保ちながらも夕焼けが水を染めていった。
そこにひとり、ぽつんと佇む私の愛。

嗚呼やはり、それだったか。

流れた一筋の涙を拭う事もせずに、太陽と向き合う海の男と、色褪せた砂のコントラストに酔いしれた。

十代はこちらを振り向く。純粋だった頃の笑顔でこちらをふり向く。太陽に向き直り、そして、片方の腕を腰にあて、左手を真横に突き出し、親指と人差し指で丸を作る。切り取られた太陽。褐色の肌がきらきらと神々しい光を放つ。

嗚呼ヨハン、やはり私達は違っていた。私達は勘違いしていたよ。ヨハン、君は知っていたのでしょう。彼にきっと、あの映画を観せたのでしょう。ずるだよそんなの。だって涙が止まらない。

「なんで泣いてんだよ。」
「十代のせいだよ。」
「知ってる。」
「うそだ。十代は自分が何をしたのか知らない、自分がどれだけ大事に思われてるか、解ってない。」
「なんだ、そりゃ。」

笑って誤魔化される。心地良い疑心。

「ヨハンと住むのやめろよ。」

さざ波は、懐かしい海岸の音色と香りを彷彿させる。まさにあの島は、学園は、地上の楽園だった。


「俺にしろよ。」


濡れた肌、少し厚くなった胸板の彼は、パラソルの私に更に影を作る。ベニスに番う夕陽は今まさに彼が背負い、いや、放っている。

ほらね。どう考えてもこの世界は、君の為に作られたものなんだ。

私もヨハンも、それがアガペーとは気付かずに。

あの日の私は今日死んだ。

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