兄は何も覚えていない。
それを知った時、頭を鈍器で殴られた気がした。
私は覚えているのに、私を殺した兄はそれも覚えていないのだ。
だからこそ、母の愛を今生で受けることができた兄は、私に対しても良き兄に成らんとした。
だが、私には記憶がある。どう考え方を変えようとしても、自分を殺したとはっきり覚えている相手に、好意を持てるわけがなかった。
けれど、別に彼が嫌いというわけではない。戦国乱世のあの時代、家督争いは何も特別なことではない。現代でもそういう事例はよく聞くのだ。仕方ない。主犯である母の身代わりに、弟を選んだ彼を許したと言えば嘘になるが、それでも割り切っているつもりだった。
「Hey 小次郎」
兄は何も覚えていない。
けれど、私は覚えている。
兄の声に反応して、思い起こされるのは、私を憎々しげに見下ろして、刀を振るう彼の姿だ。
その後に広がる瞬間の赤い世界に、胸の奥がぐるぐると熱を持ち始める。咄嗟に口を両手で押さえた。割り切ったつもりでいたけれど、どうやらそうでもないらしい。
「お、おは、よう、ございます」
記憶の彼と、目の前の男が重なる。
ああ、ダメだ。
私は無理やり彼から視線を外して、その場から死に物狂いで逃げ出した。