2 鳥のさえずりが聞こえてくる。真っ暗な世界。 目を開く。カッと飛び込んでくるのは白い光だ。慌てて目を閉じる。先ほどの光の攻撃から目を守ろうと涙が網膜を潤す。 風が木々の葉を揺らす爽やかな音を聞きながら、たっぷり時間をかけて瞼を持ち上げ、声にならない声を上げた。 茶色い板張りの天井だとは夢にも思っていなかったのだ。光に慣れた目が見るものは、病院の白い天井のはずだろう。 漂うのは藺草と、山や森で嗅ぐような濃い自然の香り。 倒れてから何日経ったのか、凝り固まってしまった身体に力を込め、上体を起こして周囲を見回す。 白い布団、黄緑色の畳、茶色い神棚、生成り色の障子。開け放たれたその向こうには、晴天の下で美しく整えられた日本庭園が見える。 は、と息が漏れた。どういうことだ。 からからに乾いた喉からは音が出ない。 病院じゃないのか? 「わ、若様!」 縁側か、廊下だろう場所を通ろうとした女が、こちらを向いて声を上げた。持っていたものをその場へ置き、踵を返して走り去っていく。 お館様を、若様がお目覚めに。 そんな声が聞こえる。落ち着いた色の着物が、よく似合う女性だった。 不意にずきりとこめかみの辺りが痛んだ。 痛みは次第に中心へと広がっていく。 痛い。 さながら、頭の中から何かが膨らんでいくようにも、外から脳を思いきり握り潰すかのようにも思えるような痛みだった。 枯れた喉から搾り出される悲鳴は、追い討ちをかけるように、喉に引っかき傷を作っていく。 痛い。 今までの人生が頭の中を駆け抜けていく。 記憶が暴れまわり、世界はぐるぐると回る。 両親と水族館に行った。父親に自転車を教わる。剣術の稽古を付けられ、戦術の指南を受けた。あまり本を読まず、外を駆け回ってばかりだったように思う。兵法書を読むのは好きだ。本は知らない知識を教えてくれる。習字は苦手だ。あまり字は綺麗じゃない。手習いはよく褒められた。野球がやりたくて母にバットをねだった。サンタクロースはいつから来なくなった? 初陣は確か12の時だ。母のシチューは時々粉っぽい。手作りだからだ。初めて食べた姫飯には感動して、女中を困らせたこともある。犬を飼ってみたかった。ペット可ではないマンション暮らしでは無理だ。よく生き物を拾った。特にあの犬達は言うことをよく聞く。そういえばあのドラマの続きはどうなっただろう。刑事ものは刺激のない生活の潤いだった。成人式は味気ないスーツで母は文句を言っていたっけ。元服は良い思い出ではない。宴の最中に家臣が斬られた。父の隙を狙ったんだったか。兄達とはあまり話した事がない。特に2番目の兄は出家していて、自分に兄なんて居ただろうか? 父は厳粛な男で、いや、野球とビールと駄洒落が好きな、どこかの製造業者だった。大きな体格で、赤い誂えの甲冑を……。 はっとした。 室内は暗く、ゆらゆらと揺れている。行燈だろう。 声を出そうとするが空気が漏れるだけだ。 重く感じる腕を動かし、ばん、と床を叩く。 ばん。もう一度。 遅い。 手を振り上げる。バン! 数秒して、すたん、と軽い音が脇の下あたりから上がった。 「……名前様」 お目覚めに、と震えた声が上がる。 遅い。怒鳴りつけようとするが、やはり空気が漏れるだけだ。喉が渇き、ひりつく。 水だ。口を動かす。水を持ってこい。 「只今」 その声が上がって数十秒、今度は頭の横で床が軋む音を聞く。水をお持ちしました。すいと頭の下に柔らかいものが差し込まれ、体を起こされ水差しが口元に当てられる。傾いた水差しから、少し温い水が口内を濡らし、喉へと滑る。爛れ、傷だらけの喉に滲みるのをなんとか堪えて潤した。 「遅い」 漸く音を出せるようになり、口から溢れ出たのはそんな言葉だった。不満を一言、二言と言い募り、長く音が出ないのを知る。だが、文句を言わねば気が済まなかった。 自分が寝ている間に、武田の忍びはよくもここまで腑抜けたものだ。 「申し訳ありません。お目覚めになるとは思わず」 「言い訳を、するな。……状況は」 「……と、申しますと」 右腕を振り上げ、頬を殴る。うまく力が入らない。驚いたらしい奴が手を引いた。支えを失った体が落ち、背中を打つ。 糞、心中で悪態をついた。 「使えねえ、クズだな、糞、篠塚、篠塚は、何処だ。野郎、真っ先に、顔を、出せ、嗚呼、チクショウ、俺の、飼い犬どもは、何処だ!」 片腕で体を持ち上げ、もう片方で床を殴る。藍染の装束の若い忍びが、慌てて部屋を出て行った。あれはどこの忍びだ。使えないものに金を使うとは、父の眼識の質も落ちたか。 ぐっと力を込めて起き上がり、足にも力を入れる。 「お呼びですか、名前様」 入れ違いに現れた男に殴り掛かろうと立ち上がる。足がもつれた。 「危のうございますよ」 傾く身体は男に出された腕に支えられ、床との激突は免れた。己を支える男の腕はしっかりと腹に回っており、ゆったりとした動作で、男の胸に預けられるような形に誘導される。握った拳に力が入った。無様な姿を晒し、あまつさえ飼い犬の腕に抱かれている状況に陥った、己の失態が脳内で勝手に反芻され、眉間に皺が寄っていく。カッと顔が熱を持つ。頭に送られる血液の量が多くなったような錯覚。固く握られた拳は、そのまま男の無防備な腹へと叩き込まれた。どう、と男が畳の上に転がる。勿論、支えられていた自分も床に投げ出されるが、それはそれだ。 転がる犬を見据えながら、ゆっくりと立ち上がる。 怒りはぐるぐると身体中を駆け回っている。 「呼んだら、すぐ、来いと、いつも」 解かれない右の拳に、どんどんと熱が集まっていく。発熱しているというよりは、発火しているような気分だ。 「名前様!」 飼い犬が声をあげた。悲鳴に近いそれに、登っていた血が冷やされる感覚を覚える。ひき結んでいた口が緩むのを感じる。沸々と煮詰まっていた怒りの中に、一滴の愉悦が落とされたようなものだ。 拳がちりと痛む。熱さを通り越し、痛みを産んでいるようだ。そんなもの、今はどうだって良い。 「答えろ、あの忍びは、なんだ」 「……あれは兄君が雇い入れた者です。若いなりに優秀かと」 「あれが? ハ、兄上も、随分、落ちたものだ」 父が雇ったわけではないという事実に、少しだけ胸を撫で下ろした。大きな存在に、憧れない男はいない。 「名前様、もう夜も更けております。まだ激しい動きはお体に障りますから、どうかお休みください。また明日、こちらへ参ります」 舌打ちをひとつ。はしたのうございます。声が落ちる。煩い。本調子になったら覚えてろ。 [しおり/戻る] |