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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -

この森に入る前は、棚いっぱいに狂い咲いた藤と、その奥に咲き誇る花々の野という、楽園や極楽かの様な美しい光景に目を奪われ、青く甘く瑞々しく、濃い花の香りにくらくらとしたものだが、奥へ進むにつれ、その臭いは変化していった。
嫌な予感はあった。一歩進むごとに強くなる臭いに、足がすくむ思いもした。これ以上行ってはならないと頭が警鐘を鳴らしていて、赤い世界が目の前に広がった時、それが何か理解するのに、数分を要した。
だってこんな世界が在るのを、誰だって信じたくないだろう。
生温い空気、鼻を抜ける不快なほどに甘い腐臭、口の中で鉄を感じられるほどに濃い血の臭い。絶えず虫の羽音が聞こえ、その中に言いようのない耳障りな小さな音が混ざっていた。赤い世界。その中に黒や白や、そのほかの色が濁りながら混在している。
胸の辺りがざわついた。全身の表面はかっと暑くなっているのに、内側からは体温が急速に失われていく。ぞわぞわと総毛立つのがわかる。ぶわりと汗が噴き出し、背中に冷たいものが滑り落ちていったようにも感じられた。胸を渦巻いていた熱が喉を駆け上り、耐えることが出来ずに吐き出してしまう。一度だけでは終わらずに、ぎゅ、ぎゅと胃を搾られる様にして中にあるものを全て地面にぶちまけた。それでも収まる事が無く、息苦しさに視界がちらちらと瞬き、世界が揺れる。
ようやく落ち着いてきたところで、ふらふらする頭を首で支えながら辺りを見回せば、殆どの人間が自分と同じ様な状態だった。
先頭を歩いていたあの蟲柱でさえ、青い顔をして口と胸元を押さえている。最後尾にいた水柱も、眉間に皺を寄せて口元を押さえていた。

凄惨な死の世界だった。

大きな穴の中に、沢山の蠢くものがあった。屍肉を食み、棲み付き、繁殖するものたちの巣が形成されていた。そしてそれを狙って集まる、ひとまわり大きな肉食の虫、それを食う小動物、それを狙う大きな動物。森の木々には烏や鷲がぎらぎらと目を光らせ、こちらを狙っているようにさえ見える。
穴の中にあるのは人だった。行方不明者たちが、そこに居た。
滅の字が入った羽織、可愛らしい柄の着物、刀を掴んだ腕、折れた脚、頭蓋骨。腐敗して溶け出した肉や、黒ずんだ血液が穴の中を満たしており、赤黒く汚い池のようにすら見える。陽の光が池を照らし、不快な臭いが更に濃くなる。
蠅、蜂、烏に鷲、甲虫、蛆、蜘蛛、蟻、黒い斑点のような、名も知らぬ虫たちの群体。うぞうぞと群がり、蠢き、流れ落ちていく。赤ん坊の眼窩から白い涙のようにぼたぼたと落ちていくのは、丸々と太った蛆虫だった。頭がなく、千切られた首から這い出るのはぬらぬらと光る甲虫だ。ぷちぷちと肉を食む小さな音を耳が拾う。腹が割かれ、啄まれたのか腸を晒している体の内には、ざわざわと蟻が蠢いている。青黒い芋虫のようなものに群がられている腕があった。烏に突かれ、肉を引きちぎられている、下半身のない女性の体があった。穴から引きずり出され、獣に食われる隊士の下半身があった。柔い場所を悉く穿られ、腐敗が進んで頭蓋骨を晒す子供の頭があった。
死を煮詰めた巨釜。血の池地獄。
頭が痛い。
陽の光を反射する虫が、刀が、赤く濁る池の水面が、きらきらと瞬く。
眩暈がする。

ふと、何か、音が聞こえた。虫や、獣や、木々の音ではない、何かの音。人の声。掠れたような、くぐもったような、微かな音は、何か節を伴っているように思える。こんな場所で。派遣された隊士がそんなことをするわけがない。いったいどこから。
自分の横を誰かがさっと走って行った。その人は躊躇することなく死の池に飛び込む。ぐちゃん、と嫌な音が耳にこびり付いた。
水柱だ。水柱が屍の海を進む。あの特徴的な羽織は着ていなかった。ぎしぎしと軋む首を動かして辺りを見れば、地面に羽織が放り投げられている。もう一人、同じように気付いている隊士がいた。あちらの方が羽織に近い。彼はそれを緩慢な動作で拾い、畳んで抱える。頭が正常な動きをしていなかった。段々と身体が重たくなっていくような気がするのだ。
足の裏から根が生えたかの如く、そこから一歩も動けない。いや、動けないはずがない。動きたくないのだ、と思い直した。目の前の残酷な死が、道連れを欲しがるかのように、川の向こうで手招きするように、命をずるずると啜っている。
ねんねん、ころりよ……。子守唄が聞こえる。

「おい、しっかりしろ」

ずるりと。水柱が池から何かを引き抜いた。赤黒い少女だった。ゆらゆらと頭が揺れている。微かに口からこぼれ出ているのは、先ほど聞いたあの子守唄だ。彼女が囁くように歌っていた。ひめさま、いいこね、ねんね、しな……。
彼女が優しく腕に抱くのは、首も、腕も、足もない、胴体だった。自分たちと同じ隊服を着ている。胸のふくらみが見て取れた。友人、だったのだろうか。
やわやわと子守唄を歌いながら、その胴体を優しく叩く。そこに眠る子が居るのだとでも言うように。子守唄の歌詞が聞きなれないのは、地域柄なのか、抱くそれが女だからか。
水柱にようやく腰まで引き抜かれて、少女はようやく人間がいるのを認識した。
ぼちゃぼちゃ、ばたばたと、胴体から滝のように芋虫どもが流れ落ちる。もう出すものは何もないのに、胃の辺りが気持ち悪い。おえ、誰かがえずいた音がする。

「……あれえ……みずばしら、さま、だあ……ねえ、ほら、みずばしらさま、だよ、おきなよ……えへへ、きれい、です、ね」
「冨岡さん、彼女をこちらへ」
「ああ」

少女がずるりと埋まっていた下半身までしっかりと池の上に出されると、ずち、ずちと嫌な音を立てながら淵まで水柱が連れてくる。腕にあの胴体を抱いたまま。
蟲柱に引き上げられたのを確認してから、水柱も池から這い出す。池の中に埋まっていた水柱の下半身は、黒い隊服からみてもべっとりと血や死蝋がこびりついていた。短時間であの様だ。今まで池に使っていた彼女はいったいどうなっているのだろう。彼女の体を直視できなかった。
蟲柱が、どこに持ち込んでいたのか大きな布で少女を包み、周囲を見回す。少女以外に生存者はいなかった。
少女へ何かを囁きながら、大切に抱いていた胴体を優しく取り上げ、さっと池の中へ落とす。血か、油か、べたべたになった少女の頭を撫でてやりながら、蟲柱は硬い声を響かせた。

「一旦引き上げます。そこの方。先に下山し、藤の花の家紋の家の方にありったけ湯を沸かして欲しいと伝えてください」
「は、はい!」

指名された隊士が、弾かれたガラス玉のように来た道を駆けていく。それに隠が何人か続いた。ありったけのお湯が必要なのだから、人出はもちろん必要である。鬼がどうなっているのかわからない今、やれる事は少ない。
それに、この地獄を綺麗にするには、ここに派遣された隠では全く、足りない。
蟲柱に言われて水柱が少女を抱き上げるとき、ぐじゅりと嫌な音がした。
水柱のあまり変わらないはずの顔が、険しくなった。



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