刀剣 | ナノ
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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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▼ 02

携帯電話が鳴る。アラームはとうに鳴りきってしまった。会社の名前と、電話番号が見える。ぶるぶると震える携帯電話が滑稽だ。かかってくる電話の合間に時間を確認すると、もう9時を回っている。電話がかかってくるわけだと思う。起きられなかった。体が、動かなかった。アラームの音が聞こえなかった。涙が溢れては枕を濡らす。会社に行かなきゃいけないのに、体が持ち上がらない。会社にいかないといけないのに、涙が止まることはなかった。小さなLDKのアパート、近くには大家さんが住んでいる。休日に顔を合わせるとよく私を心配してくれた。孫よりは断然年上だと思うのに、孫のようだと言ってくれた。なんだかその記憶だけでどんどん涙が出てしまう。おかあさん、と呟こうとして、涙と嗚咽で呟けない。滂沱として落ちるのをぼんやりと感じながら、これ以上は脱水症状を起こしてしまうのではと心配になって、涙を袖で拭いながらキッチンへ行こうと体を起こす。立ち上がる。ああ、わたしはまだ起き上がれるのだ、と思うとやはりまた涙が溢れる。壊れた涙腺をそのままにして水を飲み、ぼんやり机の上に向かう。断りきれずにとってしまった新聞のチラシ、裏の白いものにボールペンで、文字を書く。滲む視界に四苦八苦しながら、満足いくものができたと思うと、自然と涙が引いていった。
東京に来るために奮発して買った花柄のワンピース、ちょっと季節感がないけれど、久々に袖を通して見ると、あの時よりも随分と痩せてしまったのがわかる。全身を見る鏡は置く余裕がなかった。やっぱり、上京するときのために買った良いコートを着て、じわじわと涙が溢れ出す。くたびれたスーツばかりだった。色鮮やかな服が、私の目には刺激が強くて、痛かった。
やっぱり服を脱いで畳む。会社に戻らないと。シャツを着て、パンツを履いて、上着を着る。くたびれたスーツ。私の普段着になったもの。
だけど今日だけ特別だと、押入れの中のものを引っ張り出す。雑誌の付録だったかわいいバッグ、買ってもう何年になるのだろうか。これを使うのは初めてだ。財布と、携帯電話と身分証明書を詰めた。キャッシュカードと通帳は、別のチラシの裏上に置いていく。ちゃんと、数字を書いたのを確認した。先ほどのチラシの手紙を二枚もって、外に出る。鍵を閉める。チラシを一枚扉に貼って、漸く私は、この世界から飛び立つ覚悟を決めた。大家さんの家のポストに、チラシを畳んで投函する。出来れば父母に会いたい気持ちもあった。けれど、二人を思い出すだけではたはたと涙がこぼれてくるので、やめることにした。
電話が鳴り止まない。充電がみるみる減っていくので、着信拒否する。
私の隣の先輩は、数日前に自宅へ帰って、会社に帰ってこなかったし、斜め向かいの先輩は、風邪をこじらせて病院に行ったきり、二度と戻ってこなかった。ごめんなさい。私があなたたちの仕事を増やしてしまったから。私が入社して優しくしてくれた先輩達は、みんなみんないなくなった。入社して二年目の事だった。係長は、未だにあのひと。ずっと、私を叱りつけて、指導してくれていたあの人。ごめんなさい、でも、私の業務は終わらせてきました。すみません、何も言わずに会社を休んでしまって。起きられなかったんです。だって、疲れてしまったんです。先輩方はいなくなってしまった。優しい先輩たち。後輩ばかりになって、少しでも良いところ見せなきゃって。でも、すみません。もう良いかなって、思ったんです。
もう、良いよね。わたし、がんばったよね。

電車に揺られて、窓の外を見る。こんなに明るいのに、空いている電車に乗るのはいつぶりなのだろう。通り過ぎていく景色はいつも同じだった。けれど、今は違う。いつもは暗くて見えなかったり、光の列を成していただけのものが、本当はどんな姿だったのかを確認するのは久々だ。
会社に行かなきゃ。でも、降りなければならない駅は通り過ぎてしまっている。降りなきゃ、とは思ったのに、朝と同じで体が動こうとしなかった。だからこうして、座っている。たたん、たたん、電車の走る音を、静かに聞くのはいつぶりになるのか。知らない駅名。会社の最寄駅から随分と離れた。降りなきゃ、と思うまま。電車がホームに滑り込み、停車し、ドアが開く。ドアが誘うままに、無意識的に降りてしまう。ここはどこか、大きな駅だと思った。何本もある線路。輝いているのはドーム型の天井に吊るされた照明。眩しい。
改札口で乗り越し金を払って降りた。駅前の広さに瞬きをする。大きなビルがいくつもあった。そのままふらりと道を歩き、どこかの店に入って、目に付いたのは縄だった。隣に置いてあるのは紐の結び方の本。アウトドア用品がたくさん置いてあるフロア。色味の可愛いロープ、目にしみる色のロープ、カッコいい色使いのロープ。たくさんのカラフルなロープ達は、みんな自慢げに並んでいる。人の命を守るために編まれた彼らの一本を手に取った。見本になっている本を見ながら、ロープを縛ってみる。何度かやって覚え、ロープを解く。少しくたびれたロープに愛着が湧いたので、そのまま購入することにした。
会社に行かなきゃ。どこかでずっと、その思いがある。あの上司のことだから、怒られはするけれど、きっと謝れば許してくれる。あの人だって、根は優しい人なのだ。でなければこんな愚鈍な私を、ずっと指導してくれていないはず。ああ、会社に戻らなきゃ。
携帯電話の画面は、別の方向へと私を導く。会社から遠く離れて、私の小さな自宅からも離れて。会社に、帰らなきゃいけないのに。
タクシーを呼んで、運転手さんと二言三言会話しただけ、こんな夜にすみません、お仕事頑張ってくださいね、と最後に会話した後に、多めのお金を置いていった。私は今から世界に感謝を伝えにいくので、お金はもう必要がないのだ。だから本当はお財布を置いていったって良かった。でも、そうすると運転手さんが後から大変な目にあうかもしれないのでやめた。
近くにあったコンビニでお手洗いを貸してもらい、何かに使うわけでは無いけれど、水を買った。流石にお手洗いだけは申し訳無いので。
水はすぐ近くの木の根あたりに流して、ペットボトルはコンビニのゴミ箱へ。有名な樹海を最後に一目見ようかとも考えたけれど、そこにはいつも警察が巡回していると聞いたことがあるので、やめた。それでも大きな樹海を見たくて、別の場所を探してここまで来たのだけれど。これから私がこの樹海を汚してしまうのだと思うと少しだけ申し訳ない気持ちになる。本当は服だって脱いでゴミ箱に入れてしまいたかったのだけど、そうすると流石におかしい人なので、やめた。
月明かりに照らされた樹海は真っ暗だった。何度か木の根に引っかかって転んでしまった。全身が痛い気もしたけれど、涙がどんどん溢れて仕方がなかったけれど、気分は全然悪くなかった。自然と笑っていられる気がして、こけるたびに、土を撫で、枯れ草を巻き上げて笑った。泣きながら有難うと叫んだ。おかあさん、おとうさん、有難う、私をここまで育てたくれたママ、パパ、有難う!ここまで生かしてくれた世界!いなくなった先輩達!これからちょっと迷惑をかけるだろう後輩たち!叱ってくれた上司も!みんなみんな、ありがとう、ありがとう!
私に、この世界にさよならを言う機会をくれた神様、ありがとうございます!
だけど、本当は、正直に言えば。
あんなかいしゃ、つぶれてしまえ。じょうしなんか、だいきらいだ。こうはいだって、きらい。わたしのしごとをうばっていくどうりょうも、せいこうしていくともだちも、わたしをわらうせんぱいもきらい。おかあさんもおとうさんも、しゅうかつでがんばってるわたしをいちどもほめてくれなかった。きらい。きらい、きらいだ!みんなみんな、しんでしまえばいい!

「アハ、アハハハ、はははっ、あはははははは!ふ、ふふ、ひ、ひひひ、ああああああああああはははははははははははははははは」

生温い風が樹々を縫って私を撫でてくれる。ありがとう、ありがとう、大丈夫、私はもう何も怖くない!
涙は出たまま、足元もおぼつかない、視界もゆらゆらする。全身が痛い。こけすぎた?わからない。目の前に丁度いい木を見つけた。運命だと思った。幹が太くて立派な木だ。太い枝が低いところから伸びていて、木の根が台座のように張り出している。滲む視界を瞬きをして綺麗にして、なんて雨の日の車のフロントガラスのよう。気に入ったロープを幹に結びつけて、店で練習したはずの輪っかを作った。ちょっと不恰好になったのがおかしくて笑ってしまった。アハハ、なんて不恰好な輪っかなんだろう。
ロープ首にかけて、私は飛んだ。

さようなら、世界!


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