うたかたに誓え | ナノ

 ごぼ、と、肺の中が海水で満たされていく。口から溢れ出た泡は沈むこの身とは反対に、あっという間に天へと逃げていった。海に忌まれたこの身は、しかし、この海には受け入れられたのだろう。音も、光もほとんどない、ここはそう、まぎれもなく深海であった。
(……また、手の込んだ夢だ)
 切り立った崖のような海溝の間、差す光もなく真っ暗闇であるはずだというのに、見渡せばうすらと見える青い景色。むかし、本の虫であったころに想像していた通りの深海に、ここはあの愛船でもたどり着けない領域だろうと、ひとごとのように思う。
 海底が姿を覗かせる。白い砂。そこにうずもれた、白地に黒の斑模様をした、見慣れた帽子。愛刀。海賊旗に医療器具、あの日ちぎり取った鉱毒の塊。託された機密書類、体に巻きつけた不発のダイナマイト、とうさまからもらった学術書。
 あのひとがくれた、心臓の実。
(──ああ)
 墓場か。ここは。いまや口からはなにもあふれることはなかった。しんと静まりかえった、ここはきっと、おれだけの深海であった。
「……あんたも」
 こんなところにいるのかな。さして起伏もせず、凪いだままの胸が、ぽつりとこぼす。ほとんど色のない世界の中、あざやかな色彩を放つ果実へと誘われるように近づけば、その先にも、なにかが落ちていることに気がついた。
 萩色の頭巾。煙草とライター。化粧品に、正義の外套、あの日撃つことのなかった銀の銃。
 まさか、と口端から、なくなったはずの酸素が漏れた。
 奥の薄暗がりに、あかい一対のひとみが、浮かび上がっている。
「……コラ、さ……」
「──、ロー……──」
 惹かれるように足を踏み出した、そのとき、遠くから声が降ってきたような気がして、あたりを見渡す。目の前に恩人が、ずっとあいたかったひとがいるかもしれないというのに、徐々に近づいてくるその声は、その声もまた、あの、あたたかくやさしい、あのひとのそれのようであるのだ。
 頭上を見上げる。光差す海面から、だれかが、ああ、いつまでたってもずっと、わすれられずにいた、あのひとそのものが、必死になって、おれの名前を呼んでいた。
「──ロー!」
 あんた、泳ぎ、ほんとうはうまかったんだな。そんなしようもないことを言うより先に、この身体は抱きしめられていた。燃えるようなぬくもりが、おそろしいほどにこの全身を包みこんで、しかしそれはまったくと言っていいほど、熱くも痛くもないのだ。はじめて自分がこごえていたことを知った。途端に襲いくる息苦しさに、眉を寄せた、刹那、そのくちびるに口を塞がれていた。
 ごぼ、と、移される空気が、そんなはずがないと言うのに、みるみるうちに肺を酸素で満たしていく。伏せられた金色のまつ毛がうつくしかった。陽光を背に、またおれをすくってくれるこのひとは、まるで、むかし教会の絵画にいた、天からの使いのようであった。
 ロー。彼が、この名を呼んでくれる。
「かえってこい」
 おれは、そんなところにはいねえよ。くしゃりと、この頭を撫でて、しかたなさそうに、いとおしそうに、手を引いてくれる。ふわりと、この両足が浮いた。そうだ、あちらにはまだ、あのさびしがりな白くまが、いまは行方の知れない仲間たちが、きっとこの身の生を望んでいる。
 おわかれなのだと、悟らずにはいられなかった。縋りつきたいその身を、かつてのこの腕では回すこともできなかった背を、いちどだけ、しっかとだきしめる。
「……いつか、むかえにいく」
 どこにいるのか、わかったからな。ともすればわなないてしまいそうな声にも、腹に力を込めて誓いを紡ぐ。彼はその目を見開いていた。あの闇に潜んでいた赤とは比べものにならぬほど、きらめいたルビーの色をしていた。
 くしゃり、と、その顔が崩れる。いまにもなきだしそうな、それでいて、ほこらしげで、うれしそうな自然な笑みが、おれを照らし出す。ああ、と、そのくちびるが、わらう。
「ずっと……ずうっとあとに来いよ!」
 おれは、気が長いからな。頬を濡らす彼に、うそつき、などとはとうてい言えやしなかった。そのでかい手が、この腕を掴む。すべての迷いを断ち切るように、この名残惜しささえ吹き飛ばすように、彼は、この身を海面のほうへと、勢いよく投げ飛ばす。
 あいしてるぜ。叫ぶそのピースサインとあの、へたくそな笑顔を目に焼きつけて、おれは現への入り口を渾身の力で蹴り開けた。

うたかたに誓え

2024.06.06

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -