オム・ファタール | ナノ


※転生現パロ(26歳×39歳)



 あ、と、背後からちいさな声が聞こえた。見遣れば、大量に物を積んだ書き物机に備えつけのちんまりとした抽斗を、開いてはじっと見つめている彼の姿がある。
「……コラさん、それ、脱線するぞ」
「いややってる、やってるけどよお」
 いいもん見つけちまった。長い指でそこからなにかを取り出し、真っ白な歯を見せてこちらを振り返る彼に、思わず嘆息する。足の踏み場もないほどではないが、ほどほどに散らかっていた彼の自室が、気になっていたのはおれだけではなかったらしい。そろそろ部屋の整理でもするか、と、彼の気まぐれが向いたのをいいことに、ごみ袋とともに手伝いを申し出て、もう二時間は経っただろうか。あれやこれやと転がる思い出に気もそぞろな年上を、無慈悲に叱りつけるには、おれはあまりにも惚れた弱みを握られすぎている。
 ほら、と、見せられる、でかい手の中に収まった見覚えに、六年前の健康診断結果をシュレッダーにかける手が止まる。
「おまえが、はじめてのバイトの給料でくれたやつ」
 よく覚えてたよな、おまえも。キャップを外し、繰り出されていく口紅のその色を、きっとおれは、片時もわすれたことはなかった。前世ではついぞ見つけることのなかった、かつての彼のものとそっくりなローズマダーを、たまたま立ち寄ったデパートの店頭で食い入るように見つめてしまったことは、学生時代の若気の至りとして封印したい記憶ではある。
「せっかくもらったのに、あんまり使ってやれなかったなあ」
「……仕事もあるんだ。気にしてねえ」
 正直なところ、その紅を彼がまとったのは、贈った直後に飛び上がらんばかりによろこんで、だいじそうに受け取っては、その場で塗ってみせてくれた、その一度のみであることはよくよく知っていた。差し出した心づかいをなによりもだいじにしてくれる性質であるとはいえ、彼はおそらくそのときもすこし、使いにくい物を前にして、内心はこまってしまったことだろう。そんな感情をおくびにも出さず、こちらのこころをいちばんに思いやってくれた彼は、やはりどこまでもやさしいひとにちがいないのだ。
 彼のあかいひとみが、油脂で固められた顔料を、しずかに見つめている。ふ、と、そのまなざしがこちらに移ったのは、もういいだろ、と気恥ずかしさに口紅を取り上げようと手を伸ばしたときのことであった。
「塗ってくれよ」
 さして抵抗もせず、この手へ贈り物を奪わせた彼は、そうねだってはかたちの良いくちびるで笑んでみせる。跳ねた心臓とともに口紅を握りしめてしまったのを、見逃さなかったのだろう。ほら、と、この手首を包む手が、やさしく、されど強引に、彼の顔の近くへと導いていく。
「ロー」
 ふわりとした分厚いプラチナブロンドが、窓から差し込む白昼の陽光を照り返して、その輪郭を輝かせている。膝立ちのまま、すっかりくぎづけになってしまったおれを、艶めく上目のまなざしが、あまやかにうながしてくる。
 力のこもりすぎた手を開き、ルージュを持ち直す。嚥下する音すら彼に聞こえてしまいそうで、じわりとにじむ唾にも知らぬふりをする。色素を乗せようと近づければ、ふっと消えるほほえみに、塗りやすいよう力を抜いてくれたのだと気づくまで、しばらくかかった。
 脱力した口唇に、色を触れさせる。いつからか閉ざされていた瞼が、纏う無防備さに輪をかけるようで、散りそうになる気を指先へと集中させる。横にずらせば、かすれたように、なつかしの色彩があらわれていく。
「……それじゃあ、ろくに塗れてねえぞ」
 くすぐったそうに崩れた口許へ、押しつけるように、この手を引き寄せられる。ふに、と下唇のやわい肉に沈む口紅づたいの感触が、今朝のくちづけを彷彿とさせられた。ごく、と、ついに飲みくだしてしまった生唾に、ひとり狼狽しつつも、その圧力のままつよく、ふくよかなくちびるを染めていく。かすかに開かれたその隙間からちろりと見え隠れする舌先を意識から外し、蠱惑的な上唇のふたつの山を、なぞり塗りつぶしていけば、ああ、あの、かつての姿にほど近い彼の面貌が浮かび上がっていくのだ。自然と、そのおだやかな口端から、まっさらな頬へと、口角を伸ばすように真紅の線を引いていく。
「──コラさん」
 ほろりと、愛称がこぼれ出た。応じるように持ち上がる双眸が、この顔を見るなり、やわらかにすがめられる。いとおしげに。
「似合うか」
「……そう思って、あんたにあげたんだ」
 仄白い頬を撫ぜて、色彩の端を、親指でなぞる。そうだよな、と、すこし、こまったように薄い眉を下げるその顔が、いつかよりもずっと近く、この手の中にある。そう、皮膚に伝わるぬくもりに実感が追いついた、そのころには、おれはいつだって笑みをかたちづくろうとするそのくちびるを、奪い去ってしまっていた。
 彼の伸びやかな指先が、こうなることをわかっていたとでも言うように、そっとこの後ろ頭を梳く。彩られていない右眼の下を押し撫でて、髪に隠された両の耳をくるむように塞ぎ、くちづけを深めれば、この腰に置かれていた手が、ぴくりと浮いた。古びた油脂のにおいが、ん、と、高い鼻梁から漏れる声が、交わる粘膜の熱が、彼のありかを、何度でもこの知覚に突きつける。安堵にほどける胸は、彼の引力に狂う劣情をも引きつれて、とうとう、その広い肩を押し自重をかけては、彼を床に倒してやらずにはいられないのだ。おわ、と上がる声。打ちつけぬよう支えた首と頭がこわばりをほどくのを認めてから、その隣へと手を突く。
「……ぐっちゃぐちゃだぞ、おまえ」
「コラさんもだ」
 すっかり崩れた口許でおかしそうに見上げてくる彼に、そう返してやれば、そっかあ、とやや息を上げてわらうのがあだめかしい。あたたかな手のひらに頬を包まれ、拭われる口許は、移った色が擦れてひどいありさまであるのだろう。ついでとばかりにくすぐられる顎髭と生え下がりに、くすぶる腹の底が燃え上がる。とたんに、彼が、うれしそうに笑んだように見えた。
 ロー。背に、腰に、腕が回る。抱き寄せられるままその広大な肢体に身体を重ねれば、彼がかすれたささめきを、やわらかにこの耳へと吹き込んでくる。
「あんまり塗れねえから、いっそ食べちまおうかって、思ってたけど」
 よかったぜ、だいじにとっておいて。ちゅ、と、やわいくちづけを耳たぶにくれる彼の、いたずらに反った下瞼が、その息吹に煽られた情念を見透かしている。だいじにしすぎてわすれていたくせに、とは思えども、ああ、いらぬ方便は使わぬ彼であることは、だれよりもよく知っているのだ。
「……とんだ役者だな」
「つきあってくれるだろ?」
 ぐしゃ、と、ふたりの足許で潰れる書類の音にも無視を決めこんで、おれは彼のあまい計略にまんまと引っかかることにした。
 
オム・ファタール

2024.03.08

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