口実の争奪 | ナノ







 まるで蛇に睨まれたようだ。危険な光を宿した藍紫に射抜かれて薄暗い倉庫を一歩、二歩と後ずさる。彼が蛇ならばおれは蛙だとでもいうのか、いやそんなわけがない。おれが後ずさっているのは彼がその間を詰めてくるからであって、けして自分から逃げているわけではないのだ。
(いや、逃げているのか、これは)
 混乱した頭中をさらに追い詰めるように、背中が木製の壁に当たる。そうしてはっとしたときには、彼の顔が目と鼻の先にあるのだ。逃げようとする前に肩を押さえられ、吸い込まれそうな瞳を彩る睫毛が長いと思ったと同時、かさりと唇に乾いたなにかが触れる。
 それがくちづけだと気づいたのは、ぬるりと舌に口腔を侵されてからであった。頭と腰を引き寄せられて思わず胸を押そうとすると、腰の手がするりと下へと滑る。薄い布の上から無遠慮に内腿をまさぐられ、頭にあった手はいつからかおれの髪留めをひとつ、ほどいているのだ。むさぼられる唇にくらり、あまいめまいがする。突き飛ばすつもりであった手は、そのブラウスをぎうときつく掴んでいた。
(それもこれも、あんなことを言うから)
 おれに、なにかあるのか。倉庫で偶然鉢合わせた彼は、開口一番そう言ったのだ。なぜと聞けばあんたの視線が痛いんだよと肩をすくめる。自意識過剰なんじゃあないか、そうわらいとばしてやったというのに、へえと相槌をうった彼の双眸はわらっていなかった。
「あんた、自分のことには疎いんだな」
 それはきみもじゃあないのか。時折その紫紺がこちらに向いているのを、おれが知らないとでも思っているのか。そのひやりとしたまなざしに熱がこもっているのに、気づいていないとでも。ひとつも口をついて出てこようとしないその言葉は、あっという間に彼に入口をふさがれて行き場を失っている。ひとのせいにしなければ、こうする理由を見いだせないのか、この男は。
「……それは、わたしも同じか」
 がり、首元に歯を立てられる。あえぐようなそのひとりごとが聞こえたのか、そうでなかったのか。しゅるりとふたつめの髪留めを解いた彼は、それを己の懐に入れてゆるりと踵を返すのだ。
「夜まで、待ってやる」
 取りに来な。階上に消える彼の背を、ただ見送る。ずきり、首元が痛んだ気がした。

口実の争奪
(恋慕はまだ、理由になりえない)

2012.01.28



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