あこがれについての小咄 | ナノ







 おい、エドガー。背後で歯車の噛み合わせを調整しているのだろう彼が、静かにおれを呼ぶ。しかしこちらも今まさに部品のわずかな歪みを見つけたところで、そう容易に目を離すわけにはいかなかった。なんだ、ととりあえず生返事をして、部品を外しにかかる。それでもエドガー、おいと何度も呼びかけてくる彼に、さては戯れかとおれは意地でも振り向かないことにした。
「エドガー」
「しつこいぞ、セッツァー」
 ため息をついて狭い隙間に手を突っ込めば、がり、という音と共に手の甲に痛みが走った。やってしまったと歯噛みをしながら目的のものを取り外すと、彼が喉を鳴らしてわらう声がする。
「なにを怪我なんか作ってんだ、ジェフ」
 思わず瞠目して彼を顧みた。そこにはあいかわらず機関を調整している彼の背中があり、それを視認してようやく、己の意地があっけなく崩されたことに気づくのだ。だがそれよりもなによりもおれの心臓をおびやかしたのは、語尾にさりげなくつけくわえられた自らの偽名であった。
「……なぜ」
「なぜって、引っ掻いた音がすりゃあそれくらい」
「違う、そうじゃあない」
 知らぬふりをしてわざと焦点をずらす、その意地のわるさが癪に触る。語調に棘を含ませてその背中をにらめば、彼はひょいと肩を竦めて機関を覗き込んだ。
「セリスから聞いた」
 荒くれ者のジェフってか。いかにも滑稽だと言わんばかりの声音に、眉根が寄るのを抑え切れない。こちらを向こうともしない彼の背を見つめている自分がばかばかしくなって、おれはみみず腫れをこさえた手を先ほどの部品に伸ばした。
「自分で考えたのか、名前」
「……いや」
 あこがれを抱いていたひとの名から取ったと言えば、こいつはわらうのだろうか。いや、こいつだってロマンチシズムのかたまりのような男ではないか。すこしの羞恥と苦々しさを隠すようにひくく事実をつぶやくと、彼は一瞬だけ手を止めて、そうか、と相槌をうった。
「……髪、銀に染めてたんだろう?」
 なら、おれの名でも使えばよかったじゃあねえか。にじませてしまった陰を嗅ぎ取ったのだろう、明らかなその揶揄は角のない声で紡がれるのだ。直した部品を元の位置に戻しながら、きみは案外、謙虚な男のようだ。そう、やさしい戯言に乗ってやる。
「知るひとぞ知る賭博師の名を、やすやすと使えるわけがないだろう」
 それとも、おれに、あこがれてほしかったのか。反撃の狼煙を上げてゆるりと振り返ったその瞬間、傷ついたほうの手を引かれた。視界に透き通る紫が広がり、あ、と思ったときには乾いたくちびるが擦れ合っているのだ。取られた手の腫れをなぞるように爪が触れ、果てはきつく皮膚をくじられる。主張する痛覚に彼の唇に噛み付いてやると、ちいさな呻きを引き連れて離れるそぶりをした彼は、あろうことかその油にまみれた手でおれの頭を引き寄せた。
(ああ、まったく)
 深くなる接吻に、せめてもの仕返しと彼と同じく汚れきった手で髪をすいてやる。髪に触れる心理は濡れ事に及ぶそれと同じだなどという余計な噂が脳裏を掠めるのに、しかしそれでもいいかと触れ続けた。ああ、結局、おれは彼にあこがれているのだ。いやちがう、それは憧憬などといううつくしいものではない。おれが抱いていたのはきっと、ただの羨望であった。自由の翼を持つ彼が、どこへでも羽ばたける彼がただ、うらやましかったのだ。
(なんて、な)
 一国を抱える男の言うことではない。ああそうだ、実際に今日からおまえは自由だと言われたところで、おれはきっとあの国を離れることなどできないのだ。あの国をあきらめることなど、できるはずがないのだ。濡れた唇を離した、ふと見た紫苑は熱と色と、かすかな寂寥が混ざっていたような気がした。
(ああ、おれの、いろか)
 きっと、青が映り込んでいるから、そう見えただけなのだ。手の甲で口許を拭えば、わすれていた傷が鈍くうずく。ああ、ああ、これほど感傷に振り回されるのは、彼が突然におれの偽名などを出したりしたからに決まっている。ふつりふつりと込み上げる怒りは、しかし表に出すわけにはいかなかった。出したくなどなかった。
「……おまえは、ずいぶんとおれを過大評価しているみたいだな」
 おれはただの、飛空挺乗りだ。背を向けたその銀髪が、黒くよごれている。その事実に、ひどく満足した自分がいた。

あこがれについての小咄


2012.01.11



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