※慧side
恋人との距離が広がっていく。
それが最近の悩みだ。お互い社会人だということを理由に、仕事を建前にして問題と向き合うことを先伸ばしにしていた。単なる言い訳だ。
だが、やっぱり気になって、解決する方法なんて見付からなくて、彼に直接聞いて確かめる勇気もない。それで眠れずにいれば、まだまだ暗い冬の朝に彼の声が聞こえてしまった。
切なく他人の名前を呼ぶ恋人の声を。
呼んでいた名前は、
(”イセ”、か)
初めて聞いた名前だった。
初めて聞く泣きそうな声色だった。
確かに皓の人脈は広くて、自分が知らない人の方が圧倒的に多い。そんなの当たり前だ。
だが、いつも落ち着いている彼が、余裕を崩さない彼が、あそこまで苦しそうに、あそこまで切なそうに誰かの名前を呼ぶのを聞いたのは今日が初めてだった。明らかに震えた声で。
(誰だよ、イセって…)
あんな声を出させたほどのことがあったのか。
(もしかしたら、)
あの指輪の贈り主だろうか。
滅多に指輪なんてしないのにその指輪だけは付けて、あんな声を出させる。
最近皓を寂しくさせたことが原因で誰か他に好きな人ができてしまったら、もしイセという人が皓の心の中を占めてしまったなら、
(勝ち目あんのかよ、俺)
思わず弱気になってしまった自分に、嘲笑が出た。短く鼻で笑ったその音は思ったよりも惨めで、虚しく車内に消えていった。
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目には目を、歯には歯を。
罠には罠をもって制するのが最善だ。