それぞれが選んだ道
内緒だ、とでも言いたげに人差し指を唇に当てたキーツにじとりとした恨みがましい目線をやった頃、演奏が止まった。
ダンスホールに向かった紫っぽいワインレッドにつられて視線を向ければ、招待客は皆興奮を隠せずにざわついていて、よほど有名な奏者が来たのか声色が期待に染まる。
そして、少し体を動かして見えた演奏台に優雅に立っていた人物は、
「クウォーツ先輩!?」
キーツの笑う気配がした。
「はい。本当はこんな仕事は請け負わないらしいんですが、僕が仕事で向かうと言うとノエルも来るって言い張っちゃって」
「…愛されてるな、お前」
「でしょう?」
年に何回しか会えないんだったら数分の逢瀬だって、ただ姿を見るだけだって、貴重で大切な時間なんだろう。
クウォーツ先輩が個人の夜会に出演したことを聞いたことがない俺でも、今夜ここに来たのはキーツのためだと推測できた。
一礼の後、彼がセロを構える。
そして、重く響きながらも決して重苦しくはなく優雅に、だが、誰かを引き留めるようなセロの演奏がホールに満ちた。
誰に向かって弾かれている曲なのか、声なき声で誰を引き留めようとしているのか、そんなの考えるまでもなかった。
「ノエルの演奏はこの一曲だけで、後は招待客に紛れて楽しむつもりです」
「踊るのか?」
「いえ、それは目立ちますので立食程度で」
「だが、傍にいるんだろ?」
「もちろん」
キーツの目は驚くほど優しかった。
こんなに人目がある場所では無理だろう。だが、人がいなければキーツは迷わずにクウォーツ先輩を抱きしめていただろう。
そう思わすほどには優しい目は切なくて、我慢するように眉を寄せた後、キーツは黙って恋人の晴れ舞台を見守っていた。
切なそうに、だが、それ以上に晴れやかに、誇らしげに、幸せにそうに。
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