俺が恋した女は、俺の手が届くような奴ではなかった。
「オイ、あんま走るなよ…ナマエ。」
「ターレス、この貝殻見てみて!」
「あァ?きったねェ。」
「ひ、ひどい!」
「はいはい、分かったから。此方来いよ。」
夕陽に染められた、橙色の砂浜。その上で怒ったように頬を膨らますのはナマエ。そんな彼女に苦笑いを溢しながら、俺は何気なく両腕を広げてみた。
すると、
「ターレスあったかい〜」
「……、」
ぎゅう、躊躇い無く抱きついてきたナマエに少なからず左胸が締め付けられる。これが、恋人同士のやり取りならば、一体どんなに幸せなのだろう。
「…気持ち、静まったか?」
「うん…、付き合ってくれてありがとね。」
俺の胸に顔を埋めたまま、そう答えた。顔は見えないが、明るい声色からこいつの表情は何となく分かる。腰に回されたナマエの細い腕に手を添えながら、やんわりと自分の手で包んでいた彼女の背中を擦ってみた。なんて、暖かいんだろう。
この温もりが、俺のモノであって欲しいと、何十回、何百回願ったことか。
今日彼女が俺に会いに来てくれた時、一瞬だけ期待をした事を覚えてる。
けれど。
「バダと、喧嘩、しちゃったよぉ…っ」同棲している恋人、バーダックと些細な事で言い合いになり、家に居たくないから俺の所に来たと聞いた瞬間、そんな期待もズタズタに引き裂かれた。でも、"気晴らしに海でも行くか"と誘ってみて良かったとも思う。
最初こそ泣きそうな顔で助手席に座っていた彼女も、海が見えた瞬間に笑顔を浮かべた。
泣き顔のお前より、笑ってる方が好きだ。
そうやって、言えちえばこの心臓を締め付けるものも和らぐのだろうか。
「あいつは…、バーダックは多分、お前が帰って来るのを待ってるぜ。」
「そうかなぁ…」
「当たり前だろうが。恋人なんだから。」
なんて、苦しい言葉。
「ふふ、そうだね。」
口に手を当てながら笑うナマエをもう一度抱き寄せると、彼女も再び俺に応えるように腕を回してきた。
いつからだろう。俺がナマエに思いを寄せ始めていたのは。
小さい頃からこいつは泣き虫で、いつも俺にすがり付いてきて迷惑だと思っていた。
鉄棒から落っこちて膝小僧擦りむいた時も大泣きしてやがったな。
とにかく、俺が支えてやらなきゃいけないような、手の掛かる女。けれどいつしか、そんな風に俺を頼ってくる彼女を、本気で守ってやりたいと思うようになっていた。俺の事を好きだと言い寄っていた女がナマエに嫌がらせをしていると知った時は、相手が女であろうが構わず頬をぶん殴ってやったりもした。
それ程、俺は彼女が好きになっていたんだ。
しかしその気持ちに気付いた時は、もう遅かった。
「ターレス、私好きな人出来たの!」ナマエには、好きな男が現れていた。
彼女と同じ仕事場の上司であり、会社の副社長を務めているバーダックという男が。
「へぇ…よかったな。」
「うん、気持ち伝えられるように頑張る!」
「……。」
「応援してね。」
「…あぁ、頑張れよ。」
なぜ、あの時背中を押してしまったのか。そんな事を今更後悔しても遅いのは分かっているけれど。
「……。」
「…ターレス?」
こうして抱き締め合っているのも、"幼馴染みだから"という理由で片付いてしまうのが堪らなく悔しい。喉の奥が苦しくて、思うように言葉が出てこなかった。ただ、このまま時が止まってしまえばいいのにと、馬鹿みてえなことを願ってしまう。
それが彼女の幸せじゃなくても。
俺は自分さえ幸せであればいいとしか思えない、最低な男だ。
▽
高級マンションの目の前に車を停め、一度車内から出て助手席の扉を開くと、ありがとうと微笑むナマエが出てきた。
「気をつけて帰れよ。」
「うん。」
俺の前に立ち尽くす彼女は、今日の最初に見せた泣き顔とはまるで違う明るい笑顔を浮かべている。お前を泣き顔にさせるのはバーダックで、お前を笑わせるのは俺で。
「俺の方が…」
「ん…?」
「あ、いや…何でもない。」
ああ駄目だ。また、変な事を考えてしまった。
下を向いて、フッと嘲るように笑うと、俺はまたナマエに視線を持ち上げる。
「仲良くやれよ。お前の泣き言聞くのはうんざりだ。」
「はは…ごめんごめん。」
本当はいつも頼ってほしいくせに。
「ついでに、毎日毎日連絡寄越すな。生憎俺は暇じゃないんだ。」
「そうだよね、ごめん。」
本当は毎日電話出来て嬉しいくせに。
「でも、もしかしたらまたターレスの所に逃げちゃうかも。」
「はっ…迷惑な話だ。」
「その時はまたよろしくね。」
そう言ってふにゃりと笑った彼女の背後で、ガラスの扉がウィィン…と無機質な機械音を立てながら開いた。その先に立っていたのは…
「バダ!」
「ナマエ…」
ずっと帰って来なかったナマエを迎えに来たであろうバーダックが立ち尽くしていた。俺を見て一瞬目を丸くしたが、すぐに優しい表情を彼女に向けて近くまで歩み寄ってくる。
「ようターレス。」
「…おう。」
「ナマエが世話になったみてェだな。」
「ほんとに…迷惑だから世話掛けさせねえよう、充分幸せにしてやれ。」
「言われなくても、してやるさ。」
すぐ近くに立っていたナマエを、いとも簡単に引き寄せて腕の中に閉じ込めたバーダックは、俺の言葉に小さく答えた。
離してよ、なんて照れながらも笑顔を浮かべるナマエは彼の胸に頭を預ける。
見せつけてくれるじゃねぇか、クソ。
悔しさを拳に込めて、血が滲む程強く握り締めた。
情けない。勿論、俺自身がだ。どうしてこんな時ですら、彼女を奪ってやりたいと思ってしまうのだろう。そんな事をすれば、ナマエが傷付くのは目に見えているのに。
ぱた、と手から落ちた血が、静かにアスファルトを赤くする。それを合図に俺は、出来る限りの笑顔を作って言った。
「…ナマエ、また何かあったら来いよ。」
「うん!」
好きな女の幸せを素直に願えない俺は、やっぱり最低な男だと、離れていく二人の背中を見送りながら思う。
所詮、"幼馴染み"という存在でしかあいつの心に居る事が出来ない。
いつか、その壁を越えて恋人になれればいいなんて思っていた。
でもな、ナマエ。
俺は、お前の逃げ場所になりたかったわけじゃない。
愛は儚いから恋のままで