テキスト | ナノ



















ある日少女はこう言った。あなたに出会えて本当によかったわ。素敵な時間をありがとう。まるでどこかの三流映画で聞いたようなクサい台詞にオレは片眉をあげて笑ってやった。なんだよ急に。変なこと言ってんじゃねえよ。あら変だったかしら。驚かせちゃってごめんなさいね。陰のある話はそこで終わり気が付けば「普段と同じような」会話へと繋がっていた。なんら変わりなくふわりと微笑む少女に俺は変な違和感を感じつつも、それをただの勘違いと決め付けて彼女の部屋から去った。じゃあな。またね。優しい笑顔を浮かべる彼女と「普段と同じような」挨拶を告げ合って。

翌日の寝覚めは最悪だった。早朝の4時くらいから数分置きに電話が入り、携帯特有の機械音がひっきりなしに部屋中で響いていた。それが繰り返され五回目の電話が入った頃だろうか。低血圧なオレはようやく電話を手にした。安眠を妨げられた苛立ちに携帯を握り潰しそうな勢いで通話ボタンを押すと、相手が喋り出すより先に怒鳴り散らしてやった。

悪戯ならもう少し時間を考えろ。こんな朝早くに。

しかしそれより先の言葉が紡がれることはなかった。受話器の向こう側の人間は嗚咽を漏らし、時折上擦った声の中にオレの名前を呼んでいる。眠気がまだ少し残ったままのオレは、それでも精一杯気を遣って何があったと問う。すると涙声のそいつは、取り乱した様子で途切れ途切れに言った。そして次の瞬間、オレはある言葉で完全に眠気を覚ますことになる。

ナマエが死んだ。


少女が病弱だという事は知っていた。恋仲になるよりも前から当の本人に告げられた。オレから彼女に対する本当の気持ちを打ち明けたときだってそいつは困ったように笑ってこう言った。私はそんなに丈夫じゃないし、きっとあなたより先に死ぬ。あなたの求める幸せなんかに私はきっと応えてあげられない。それでもあなたは、――バーダックは。答えはイエスだ。続きを聞くこともなく返事をくれてやれば、少女はふにゃりと間抜けに笑った。ガラス細工のように綺麗で、けれど触れてしまえばすぐに形を失ってしまいそうなその表情。ああその笑顔だ。柄にもなく離したくねぇと思うくらい、その笑顔が愛おしい。そういえば昨日の別れ際に見たあいつの顔もオレが好きなそれだったな、なんて。つい五分ほど前に電話相手から伝えられた病院へと走りながら思い出した。今思えばあれがあいつを見た最期だったのだ。

彼女は分かっていたのだろうか。
今日で命が尽きることを。

病院についたオレを迎えたのは、今までに見たこともないくらい狂ったように泣きじゃくるセリパと、その隣にはターレスがいた。なんでターレスが、と思ったがそういえばナマエの幼なじみだったなと納得した。病室の前に居た二人に近付いていく。暗い廊下に居たその男はオレを見るなり、セリパを押し退けてオレの襟元を引っ掴み、病院であることを忘れているかのような声で叫んだ。

「なんで電話に出なかった!?何回も何回もかけ直しただろ!!」
「ターレス、やめなよ!!」

オレとターレスの間を裂こうと泣き面を隠していた手を伸ばしてきた。が、お前は黙ってろと低い一喝を喰らい彼女の手は空中を掴むだけにおわった。そんなやり取りを終始見つめてからもう一度ターレスを見た。目元には隈があり、褐色の肌には所々泥がこびりついている。きっと深夜のバイトからそのままこの病院に飛んできたのだろうということが簡単に予想できた。こんな状況なのに薄笑いが浮かぶ。ひでえ顔してやがるじゃねぇか。そう呟いてやれば、虫を噛み潰したような苦々しい表情に変わり、誰のせいだと思ってんだと吐き捨てるように言われた。肩を竦める。はて、誰のせいなんだい?それを声に出す直前で、ターレスの拳が飛んできた。――バキッ。嫌な音が聞こえたのと、鈍痛が頬を襲ったのはほとんど同時だった。

目の前の男を睨み上げてやろうと視線を投げれば、それは出来なくなってしまった。


「なに、泣いてんだよ、てめぇ」


はらりとそいつの頬を伝ったそれに、オレは思わず眉を顰めた。どうして泣くんだと聞けば、お前が泣かないからだと意味のわからない答えを返された。

「なんで電話出なかったんだ。お前が出るひとつ前の電話までは、あいつが、ナマエがかけてたのに。なんで、なんでよりによって、あいつが死んだ直後に出るんだよ。馬っ鹿じゃねェの。ホント馬鹿だなアンタは。」

捲し立てるようにターレスは口を動かした。溜めていた言葉を全て吐き出しているようにも見えた。そうか、オレが出る前の電話はナマエがかけていたのか。まったく死ぬ直前までオレの事気にしてたのかよあいつは。物凄く痛かった筈なのに。苦しくて、死が怖くて、電話どころじゃなかったろ。ああ、オレなんかよりあいつの方がよっぽど。

「馬鹿だよなァ、ホント」

あなたに出会えて本当によかったわ。素敵な時間をありがとう。

つい昨日唐突に告げられた言葉が脳裏に蘇る。表情も、声色もすべてが鮮明に。悲しみが込み上げてくる。なのにどうして涙が出ないのだろうと不思議に思っていたら、彼女の両親と担当医の男が病室から出てきて、オレのことを中へと招き入れた。半ば放心状態で彼らについていくと、白いベッドの上に眠るナマエの姿が飛び込んできた。寝息ひとつ立てていないそいつの側に寄ると、彼女の母親が啜り泣きながらオレに語りかけた。

バーダックくん、ごめんね。この子どうしても病気の事あなたに伝わってほしくなかったんだって。心配をかけたくなくて、なにより気を使われるのが嫌で。「普段と同じような」時間をあなたと過ごしたいってそう言ったの。最期のお願いだからと念を押されてしまって、わたし、本当にごめんね。

最後まで言い切ると母親は父親に縋りついて泣き喚いた。父親もショックを隠せない声ではあったがそれでも落ち着けと背中を擦ってやっていた。とりあえず外に出ようという提案に乗った母親は父親と二人で病室を出、担当医もそれに続いて出ていった。病室で二人きりになったオレとナマエ。他愛のない会話でもしようかと正気でもないことを言ってやると、なぜか少女が微笑んだ気がした。その顔が、昨日の彼女の笑顔と重なる。

つう、と何が頬伝った。


やっと泣けたと、そう思えた。