テキスト | ナノ



一回だけでもいいから、彼の両腕にぎゅうっと抱きしめてもらいたいなあ。馬鹿みたいに夢うつつなことを今まで何百回、何万回考えたことだろう。それが叶わないことだと分かっていても、映画館や公園に行ったときに抱き合ってるカップルを見かけるとほぼ必然的にそう思ってしまう。そんな時は決まって彼の腕から下がった包帯を片手で握りしめる。そうすると彼は優しく、けれどどこか悲しそうに微笑んでこう言うんだ。

―ごめんな

それを聞くと毎回思う。私の我侭が彼を深く傷付けているのではないか。本当に抱きしめたいと思っているのは、ハンディなんじゃないかって。自惚れているわけじゃなくて、私が抱きしめてあげるといつも「俺も腕があればなあ」と言いたそうな顔をして笑ってるから。残酷なことを言うようだけど、いっそ私の両腕を引きちぎってでも彼に腕をあげたい。義手なんかじゃなくて温かい腕を。


「ハンディー、重いよ」
「…背凭れに丁度いいなあ」
「やめてよ、あたし女の子なんだから」


ソファに座って紅茶を飲んでると、ハンディが突然私の背中に寄りかかってきた。今私たちはお互いの背中を合わせるような形になってるからハンディがどういう顔をしてるのか分からない。けどきっと顔を赤くしてるんだろうなあ。甘え上手じゃない彼も本当にたまにだけど、こうやって甘えてくる。照れ屋のくせに。下手くそな甘え方だけどハンディにとっては精一杯なのだろうと思うと、自然に頬が緩んでしまう。まだ少しだけ紅茶の入ったカップを目の前の机に置いてから、私もハンディに体重を預けた。重いと文句をたれる彼の、普段ヘルメットで隠れている赤っぽい髪の毛が私の首筋に当たる。


「ハンディの髪ちくちくする」


思ってもいないことを言ってやれば、ハンディはそれを見透かしているように無関心な声でふーんとだけ返してきた。でもそれ以上何かを言う気にもなれなくて、ただ静かに流れていくこの幸せな時間を過ごそうと思った。瞼を閉じると、裏側に染みついて離れないカップルたちの姿が浮かび上がる。と同時に、また私の醜い一面が姿を現してしまった。

「ぎゅってしてほしいなあ、」


言った瞬間、少しだけ揺れた彼の髪。首越しに伝わってくる彼の気持ちが私の左胸を締め付ける。何を言ってるんだろう私は。こんなことを言ってまた彼を困らせて、何が楽しいんだ。けれど自分の意志とは関係なく、たくさんの言葉が喉を通って溢れだしていった。


「色んなカップル見てると羨ましいの。キスだけじゃなくて、あったかそうな両腕に抱きしめてもらってて。私はこうやってハンディの背中の体温しか感じられない。」


―何言ってるの、やめて


「好きな人に抱きしめてほしいって思うのはいけないことかな」


―もう黙ってよ


「ねえハンディ、」
「ごめんな、ナマエ」


痛いくらいに鼓膜を震わせた、ハンディの声。
また彼を傷付けた。その罪悪感にハっと我に返った私の心臓を、彼の掠れた声がこれでもかというくらい締め付ける。違う、謝るのは私の方だ、と口を開こうとしたのもつかの間、背中から彼の体重が消えた。髪の毛も温かさも、全てが私から離れていく。このまま彼が帰って来なくなってしまう気がして、そんな恐怖に侵されてしまった私は慌てて背後を振り向いた。すると、視界いっぱいに広がるハンディと、唇に触れた温かいなにか。彼の睫毛が、ほんの少しだけ濡れていた。

何分その体勢で固まっていたのか分からない。もう永遠にも感じたその時間を再び突き動かしたのは、私からゆっくりと離れて言った彼の言葉だった。


「ナマエ、俺には腕が無い」
「…うん」
「これから先も、お前に寂しい思いをさせるかもしれないし、不満を抱かせることも多いと思う」
「…うん、」
「でもその分、俺の一生を使ってお前を幸せにしたい」
「それ、って…」

「…結婚しよう、ナマエ」