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昼下がり、油断した
2012/10/07

つい先日に結婚の申し入れをしてそれをあっさりと受け入れた彼女がこの部屋に来るのはいつもの事だから今日もそのいつもみたいに何ら変わりのない日々をおくるのだろうと予測していた。
浮力の無い色褪せた畳部屋、六畳半。太陽が一番上まで辿り着いた頃だと言うのにカーテンを締め切ったままの状態で、私はうつ伏せで畳とは犬猿の仲であろうベッドに突っ伏して伸ばした両足を軽くばたつかせる。不恰好な遊泳もどきから、両手の動作も付け加えて手のひらで水という名の重たい空気を掻き捨てた。そのまま体を反転、寝返りをうつと木張りの天井が見えるのだけど、黒い染みが広がっていて、生温かさが籠ったこの部屋は黴が大気を汚染してるに違いない。深呼吸をした。

「ねえ、続きの巻が全く見当たらないんだけど一体何処にあるの」

本棚の前で身を屈めた彼女の背中が物欲しげに声をかける。続きが気になるのだろうか、落ち着きない様子で本棚を物色していた。その姿を見て、本棚を弄られるのがあまり好きではないことが頭の片隅にちらついたけれど彼女のそんな姿を見ていると自然と許せてしまえたので、仕方なく布団から少しだけ起き上がる。だらしなく床に置かれた漫画のタイトルを覗き見て、確かその続きはまだ買っていなかった事を思い出した。
確認を終えて用事を済ませた体はそのまま倒れ込むようにしてベッドに沈み込み、スプリングが音を立てる。彼女の柔らかそうな黒髪が背中で揺れていて、それを無心で見ていた私の眼球が丁度良くこちらを向いた彼女のそれと合った。輝きのある大きな二つ瞳。

「お前、聞いてるのかよ?」

その瞳に私は射殺される。もう幾度も、幾度も殺されていると言うのに、まだ殺したりないのか。不覚にも心臓が強く脈打った、別に意識はしていなかったはずだ。
簡潔に申し開きをして、目を反らして再び天井へと視線を戻す。我ながら子供染みているとは、思う。もっと関係を深めていった方が良いのだろうけれど、それでも甘ったるい言葉に溺れて、ひたすらに愛で合って、そんな関係になりたいとは思わない。恋愛は殺伐としていた方が格好が良いというのが私の持論だ。

「今さ、ときめいた」

そんな持論を持っていながら私はこのような言動を平気で吐き散らかす。容易くに口から吐き出すことが出来るそれに、意味は無いように思えてならない。その必要性の考えを巡らせて未だに分からずにいる。

「私の話聞いてたのか?」

もう聞き飽きたとでも言いたげに、表情を変えずに彼女は答えるだけだ。
だから私は、彼女の名前を呼んでからいつもの様に呼吸と同じ要領で糖分たっぷりの言葉を口に出す。彼女は有り難うと、やはり顔色変えずに答えた。だけど私はその姿に、満足していた。

普段まともな会話すら出来ない癖に、ここぞとばかり調子に乗った私は出任せでダメ元の少し大胆な行動に出る。今なら何か出来そうな気がしたのだ。

「本、買ってないんだ。だから今度一緒に買いに行かない?」

遠回しなデートのお誘いかもしれない。密かに横目で彼女を窺って見ると至って変わらずの無表情で、もっと分かりやすいとこちらも苦労ないのになんて冗談を思いついて見る。だから少し油断していた。

「今度じゃなくて、明日」

私は勢いよく顔を上げて、スタンドライトが顔面を直撃した。

顔面を手で押さえつつ彼女の両目をしっかりと捉えて、きっとたぶん今私は興奮しているのだと思う。

「冗談とか言わない…?」
「言わないよ」

いつの間にか部屋中に満たされていた重く淀んだ空気は無くなっていて、その代わりに乾いた空気と暖かい日差しが射し込んでいた。

どうやら私の予測は、外れてしまったらしい。


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