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さよならは言えないまま
2011/08/29

信号機は赤を示しているのに彼女は歩き出す。たまらずに僕も後を追う。クラクションにも構わず後を追う。振り向いた彼女は微笑んでいた。クラクションの音がより一層大きく聞こえた。鈍い音が頭の中で轟いた。

真っ暗で何も見えない。彼女の姿も見当たらない。彼女の微笑みの訳を考える。とても優しい表情だった。

サイレンが響きわたる。こちらへ近付いて来てるようだ。

「私の勝ちよ」
暗闇の中で声だけが聞こえた。
「油断したよ」
僕は言った。

午後一時三六分
××県××市にて交通事故が発生した。少年一人が車に跳ねられ死亡。急な飛び出しが原因とみている。

高級臭い建物の中を一人歩く。その内装はここの主の傲慢さを見事に物語っているようだ。仄暗い室内に入るとソファーに腰掛けた男がグラス片手に退屈そうにしていた。金色をした髪は少し水分を含んでいてシャワーでも浴びたのだろうバスローブ姿の彼は私を見るやいなやグラスを置いて足を組み換える。
「終わったのか」
期待も失望もない単調な声音だ。これが10年ぶりの再開だというのに実に簡単で面白味欠ける。
「ただいま」
中央に歩み寄りテーブルの上のグラスに手を伸ばす。真っ赤に揺れる液体はまるで血液のようだ。口許に運び静かに嚥下した。
「アキ」
ここの主の名を呼ぶ。アキは立ち上がりそして私からグラスを取り上げ残りを飲み干した。空になったグラスを投げ棄てるとそれは壁に当たって無惨に砕け散った。肉片となった彼のようだった。アキは冷たい目を向けて「おかえり」と言った。相変わらず無愛想な人だと密かに思う。アキは私に何があっても見向きもしない。興味の欠片も私には無いのだ。実に今更だ。だからと言って興味を持って貰いたい訳でもない。全てをジョークと受け取って笑い飛ばせる程度には私もひねくれているつもりだ。

今回のゲームは10年と非常に短い期間だった。そして彼の最大の敗因は私を愛したことだ。彼は最後まで愚かな人であった。こうして今回のゲームは呆気なく幕を閉じたのだ。

「いい人だったわ」
「あともう少しだ」
「まだ続けるの」
「俺達は勝ち続けるんだよ」
お互い干渉も必要もしないくせこの場所に帰ってくる。全ては勝利のために。


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