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少女の名は、
2012/08/27

片道三十分の道のりはとてつもなく長く険しい。そして如雨露とそこに満たされた水の重量は果たしてどのくらいなものだろう。況してやそれに留まらず逆手にスコップやら肥料やら大量の器具を携えているのだからこれはもう人間の仕事ではない筈だ。
ジリジリと照り付ける陽射しを浴びて汗だくになりながらやっとの事で辿り着いた私の土地はこれから収穫されるだろう色とりどりの野菜で輝いている。場所だけあって人に荒らされることもなく野生の動物どもに領土を半分ほど分け与える程度で平和は保たれている。そう、平和だ。こうして畑の手入れをして日光の下でのんびりと昼寝でもする。誰の目も気にせず自由に寛げる幸せ。
腰を下ろして熟れたトマトを一つもぎ取った。汚れを拭き取りながら、突然声がした。訳がわからなかった。年端もいかない小さな少女がこちらを見ていていたのだ。その風貌は此処等じゃ見掛けないような西洋風の顔立ちで、そうとなるとこれは大変だ。トマトにかぶりついた。
「ねえ聞いてるの。」
問い立てるような口調と共に腰まである長い金髪が揺れた。今日は日差しが強いと言うのにそんなに素肌を出していたら日焼けしてしまうんじゃないだろうか。白のワンピースにレースで可愛らしく装飾されている。
「お城よ。知ってるでしょ。」
痺れを切らした少女は苛立ち気味に言った。"お城"と少女は言った。それを知ってるのは此処等でも限られてくるのに、彼女の口からその言葉が出るとはこれまた何かの因縁だろうか。動悸がする。
「何の用事かい?」
「仕度よ。」
俺の意思を無視して全身に鳥肌が立っている。妙に心臓が五月蝿い。冷や汗までも出てきたようだ。
「私はダリア。ゲームを執り行う者よ。と言ってももう知ってるわよね。」
小柄な少女が妖艶に唇を歪めて見せる。そう言って微笑む姿は二年前と全く変わらない。
もう二度と会うことはないと思っていた。会いたくもなかった。
「随分冷静になったわね。」
「お陰様で。」
忘れられるはずもない。あの出来事を生み出した張本人。死の恐怖に踊らされ無数の仲間が死んでいった。それをまた繰り返そうと言うのか、この化け物は。
彼女はフフと含み笑いをして、聞きたくなかった言葉が俺を押し潰した。

「開催目安は九日後、その前に人を集めて再びゲームを行います。前回のような失態はしませんから十分楽しんで頂けるかと」
「何故それを俺に言う、まさかまた俺に参加しろってか?冗談じゃない、誰がまたあんなゲーム」
「貴方に権限はありません、さしずめ前回勝者の義務と言ったところですからご了承下さいね」

歯を噛み締めた。さっきまで幸せを感じていて、気を張らずに過ごせる日々が心地よくて、平和っていいなって思っていたのに。なにこれ。おかしいだろ。こんなの勝者と名を売った口封じだ。たとえ今回勝てたとしてもコイツは清々しい顔をして再びゲーム繰り返し続ける。やりたくなければ死ね、生きたければゲームを続けろ、そんなの暗すぎて何も見えやしない。絶望だけじゃ人間死ぬだけだ。
俺は一つ提案を持ち掛ける。俺だって黙って死にたくなかった。
「そうね、そういうのも大事かもしれないわ」
そう言って何処か遠くを見ながら楽しそうな表情をした。そして「わかった」と付け加えて俺に向き直る。

「今回から勝者には望みを一つ叶えてあげることにするわ、これはより上手くゲームを進行させる為の考慮」
彼女は不敵に笑った。

すると突然強い突風が俺たちに襲い掛かった。ミシミシ木々が揺れ草木が舞い上がり目を細める。風はすぐにおさまった。

そこにもう彼女はいなかった。いつも通り暖かな太陽の光が降り注ぎ心地の良い風が吹き抜ける。全て夢だったようだ。あれは全て夢で彼女はここにはいなかったのかもしれない。そうだったらいいのに。わざとらしく落ちている白いレースの飾りが視界に入って消えなかった。立ち上がってそれを拾うとポケットに入れて知らない振りをした。もう少しだけ幸せに浸りたかった。だけど既に俺の周りは薄暗く作り物めいていて、幸せなんてもう何処にもなかった。


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