「あのさぁ」

五条が困ったとき、嫌なことがあったとき、疲れたとき。後ろからやって来て、私の肩に顔をうずめて、それを話し始める合図の言葉。
五条は強い。強すぎる。高専を出てその理解が呪術師界で深まるに連れ、彼は自分の心の内を人に語らなくなった。五条の愚痴を聞いても誰にも解決できないから。聞いた人の負担になるだけ。
だから軽薄な態度でも言葉にする情報は丁寧に分別している。けど、どうしても気ままに振る舞えた昔に戻りたくなると、こうやって私の肩に顔をうずめて口に出す。
上層部への愚痴、漠然とした世界への不満、いなくなった親友、死んでいった知り合い、発売が終わったお菓子。色々なことを話す。
その始まりの言葉が、なぜ、今、私の耳元でしたのだ。

そしてなぜ今、私はこれを思い出しているのだろう。

宿儺の存在を目にした緊急事態でこんな悠長なことを。
その答えに到達する前に、体が先に動く。作る。撃つ。脚から完全に力を抜く。反動で体が吹っ飛ぶ。迫りくる線の嵐が景色を変えていく。形あるものすべてが切り刻まれて重力に引かれ、砂のように崩れる。そして私を狙って来る強烈な斬撃から逃げることはできなかったが、角度はずらせた。
頭から股間まで縦に真っ二つではなく、腰骨の位置で横に真っ二つ。さっきまで自在に動かせていた足が血を吹きながら脱落して行く。

そうか。これが走馬灯ってやつ。


▲ ▲


「ナナミーン!なまえさーん!!いるー!?」

約1時間半と少し前、虎杖から名指しされ、みょうじは五条の封印を知った。
虎杖がいるビル屋上に集結した術師の中で年長のみょうじと七海が出した答えは、みょうじは引き続き地上で任務の継続。猪野・虎杖・伏黒は渋谷に降りている“術師が入れない帳”の解除、七海は要請を通しに“帳”の外に出るということだった。

猪野が2人を連れて行った後、みょうじと七海は3人の背中を見送りながらため息をつく。
「要請を通した後は、私も戻って地下へ向かいます」
「増援があれば私も地下に行けるんだけど……すまない」
「いえ。みょうじさんが上にいてくれるなら、逆に敵を地上に溢してもいい余裕が生まれるので助かります。全員地下に向かうとそれはそれでキツいですから。渋谷駅周辺の状況はどうですか?」
「改造人間の量が増えてかなりひどい。恐らく五条の封印が終わったタイミングからかな。それに改造人間化はあのツギハギが触れて即時じゃなく、仕込んで遅効もできるみたいだから、ただの一般人にも簡単に近づかない方がいい。あと呪詛師らしき存在も何人か見た。数人簡単に撃てたけど、身を隠して出て来ないのもいる。ピンキリで投入してきているね」

今回のみょうじは狙撃手として術師のサポート、呪霊の祓除、さらに索敵の任を振られていた。
現在の呪術師界は近接攻撃をメインにした者が多く、加勢役として接触や“お見合い”を防ぐために、中・遠距離攻撃が重宝される傾向にある。しかしその代表格である銃は、跳弾による味方へのリスクが高く、有用ではあるが加勢向きではないと言われていた。
みょうじの構築術式の強みは、自身で弾や銃本体まで作れることにある。敵の硬度に合わせ現場で即時調整と構築をすることで、跳弾させず完璧に敵を撃ち抜くことができ、呪力で弾をコーティングすることで風の影響を受けずに直線に進む。味方も射線が読みやすい。
さらに天与呪縛で強化された身体能力でフットワークも軽い。電波を封じられた渋谷において、高台から地上を見て迅速に狙撃で仲間のサポートをできるのは現場地上に彼女しかおらず、今の任を離れられなかった。

「七海くん、私も地下に行っていいか上に聞いてほしい。連絡はこれで」
みょうじは七海に、海上などで使う小ぶりな信号拳銃と2つの弾を構築して渡した。
「地下に行っていいならオレンジ、引き続き地上任務続行なら青で。どこで撃ってもらってもいい。見える位置にいるから。使用後はその場で捨てて」
「分かりました。お気をつけて」
「七海くんもね」
そう言って、お互いがお互いにかけた別れの言葉を守らないことは解っていた。そしてみょうじが元の位置に戻り、しばらくして見たのは上空で輝く青の照明弾だった。すぐに視線を渋谷駅前に戻し、非術師の避難に力を注いでいる狗巻の背後に来た改造人間の頭を撃ち抜く。

みょうじは地下に行けるのが望み薄だと解ってはいた。七海の言う通り、地下の術師が上に敵を漏らしてもいい状況を作るのは全体の余裕に繋がる。適切な判断だと思いながら、ジャンパーにある使い物にならなくなったスマホの重みで思い出す。“帳”に入る前の五条からみょうじ宛に来ていたメッセージ。

『行きたかった店、キャンセル出て行けるようになったよ。時間ずれて20時からになったけど』

明日は五条と食事の約束をしていた。
引き金を引きながら、明日、五条がいない可能性の重みに耐える。
明日、自分がいない予感はこんな仕事をしていれば何度もあったが、みょうじはもう長いこと五条がいない世界を考えていなかった。それは自分の死後を考えるより、ずっと体を重くさせたが、懸命に避難指示を行う子供の狗巻や逃げ惑う非術師の姿が、みょうじの狙撃精度を狂わせなかった。


▲ ▲


地上の状況が大きく変わったのは23時を過ぎてすぐだった。
渋谷の一角から強烈な閃光。同時に大地震のように地面が戦慄き、炎が溢れた。火がアスファルトも鉄もコンクリートも焼きつくし、食い荒らし、飲み込んでいく。1秒の判断の遅れが人死にに繋がる状況。それをよく理解しているみょうじや狗巻でさえ、その炎の強さには動きを止めて見入ってしまった。それほどの衝撃だった。
離れていても目と喉がひりつき、目がくらむ。網膜に焼きついたようだった。劫火が本当にあるのならこういうものだろう。

『あそこは日下部さんとパンダくんがいた場所だ』
みょうじは押されるように走り出す。みょうじは22時の段階で、1度2人の場所を確認していた。
空に向かって空砲を3発撃つ。狗巻と事前に決めていた合図「狙撃位置を離れる」である。念のためスコープで狗巻の顔を見ると、狗巻もみょうじの方を見て『パンダ 行け』と口が動いた。
アサルトライフルを背負い、屋上を飛ぶように渡る。日下部達の場所まで一切止まる気はなかったが、みょうじの体はある場所で勝手に固まった。
まるでこめかみを射抜かれ、意思を置き去りに体が絶命した感覚。屋上から落ちる寸前にフェンスに足を引っ掛けて止まった。

みょうじの体が止まった所。
そこは、魔虚羅に向けて展開された宿儺の「伏魔御廚子」の中だった。

“宿儺が自分を狙って来た”と錯覚を起こさせるほどの呪力放出だったが、領域内のすべてが攻撃対象であるだけで、実際宿儺はみょうじが自分の領域に入ったことに全く興味がなかった。
凶悪な呪力にみょうじの視線が反射的に動く。巨大な2つの呪力と、その片方から滲み出る禍々しい呪力。立ち入ってはいけないところに入ったと理解する。同時に、みょうじはそれが宿儺だと認識し、そして走馬灯を見た。

半径140mの狂乱は音もなく始まり、斬られたものが強烈な爆音をたて領域内で崩れ去った。
ただ、みょうじは最悪な状況に遭遇した中で最も運が良かった。
まず、1級術師でさえ身がすくんで動けない宿儺に対し通常より素早く反応できたのは、五条悟という規格外の存在が長いこと側にいた慣れがあったこと。
次に、彼女が即時作れる物の中に超大型砲があったこと。
みょうじの構築術式の構築スピードは、構築回数に比例する。難解な数式でも何度も解いていれば体も解き方を覚えるように、大型でも複雑でも、構築回数が多ければ即時組み上げられる。

みょうじは高専時代から「特級呪霊はクラスター弾での絨毯爆撃でトントン」という基準を信じ突き進み、その威力を出せる銃の構築テストを何度も行って来た。開発できれば近接では叶えられない安全圏からの上級呪霊や呪詛師の処理が可能になり、かつ、誰でも運用できる武器としても使えると考えていたからだ。
灰原が殉職し、夏油がいなくなり、七海が去ってから、みょうじは開発に増々力を入れた。
できあがった銃はもはや砲だったが、最強の後輩の手を借りて試され、極限まで威力を高めることに成功した。結果、特級クラスにも通用するだろうという物は完成したが、呪術師界に採用されることはなかった。
理由は周囲を巻き込む威力の大きさと、狙撃反動の大きさ。七海や東堂のような頑丈な術師なら狙撃は可能だったが、“反動による足場の崩壊”はどうしてもカバーしきれなかったからである。
採用されなかったものの、何度も構築し、破棄され、ずっとみょうじの片隅にあった、特級砲。

切り刻まれていく空間を見ながら、みょうじは反射的にその特級砲を構築し撃った。あとコンマ数秒遅れていたら、術式に必要な指先が切り刻まれていた。
宿儺を倒すためではない。目的は強力な狙撃反動を受けるためだ。狙撃と共に足の力を完全に抜き、上半身のみで反動に備える。
爆音と火薬の香りが立ち込め、狙撃反動で一気にみょうじの体は屋上から吹き飛び、走るより早く体を動かすことに成功した。

最後の幸運は、宿儺の「伏魔御廚子」は領域展開ながらも結界で空間を分断しないため、みょうじの狙撃反動により領域外に脱出するという手が使えたこと。「捌」に切断される箇所がずれ、さらに領域の境界近くにいたことで「捌」の追撃を受けなかった。
宿儺の領域から生きて出るための対価として下半身を支払うのは、破格の安さだった。



反動エネルギーは徐々に失われ、落下が始まる。みょうじは散弾銃を作り、落下地点にいた改造人間をミンチ肉のクッションにした。
弾の熱で改造人間の肉が焦げる音を聞きながら、みょうじは空を見上げる。さっきまで真っ暗だった空が薄赤く染まっていたが、それは落下の際に切れた額を濡らす血のせいか、あの炎のせいか分からず、口の中に入った血肉を吐き出した。
下半身のない体は軽く、改造人間の肉塊から簡単に転げ落ちる。痛覚が麻痺し、下半身よりもぶつけた頭の方が痛い。

死ぬ。
天与呪縛による底上げされた呪力と肉体で即死は免れたが、死ぬ。みょうじは持ってあと数秒。逆流してきた胃液が喉をつまらせる。
『今じゃないんだ』
散弾銃、そして細切れにされた特級砲を消して、呪力を回収する。
『悟をひとりにしては駄目なんだ』
血だらけになった手を合わせ、決められた形を作る。それだけの動作なのに、数センチ指を動かすのでさえ生命を削っているのが分かった。
「領域、展開」


▼ ▼


「なまえ?」
目の前にいる人が誰かを理解し、そして現実か判断するのは五条の幻聴を聞いた私には難しく、手を握ってもらってやっと分かった。
「歌姫先輩……?なんで……?」
「私達も後発で投入されたのよ」
聞き慣れた音、独特の揺れ。過ぎて行くいくつもの丸い光。決まったタイミングで明かりに照らされて浮き上がる歌姫先輩の顔。高速に乗った車の中だとやっと分かった。車内?あの燃える渋谷は?どこから私は記憶がない?歌姫先輩の膝の上で途切れ途切れの記憶を思い出す。

「ねぇなまえ、その両足、作ったでしょ」
歌姫先輩の言葉で断片的だった記憶が繋がる。足は力を入れると思った通りに動く。暗い車内ではどんな足ができたかは見えないが、動く足は2本で、それぞれに指は5本ある。
「なんで分かりました……?」
「足にあった大きな傷跡が失くなってたし、見つけた時かなりの血溜まりがあったのに大きな怪我はなかったからよ。何があったの」
「……宿儺の領域展開に巻き込まれて下半身をまるごと落とされたので、自分の領域内で作りました。あそこは呪力の底上げができるので」
「道理でね……その呪力放出を感じたから運良く見つけられたわ。改造人間の下から引っぱり出したとき、下半身だけ裸だったから肝が冷えたわよ。でも体として機能するの?」
領域内では呪力の底上げがされるので、呪力消費を計算に入れずに構築が可能だ。そして構築物は領域終了後も外に持ち出せるが、いわゆる生物を作ったのは初めてだった。
「まだわからないです……。生きてるので、なんとかなったとは思いますが」
そう答えた途端、膝に硬いものが当たって思わず呻く。
「痛覚は機能してるじゃない」
「ま、真依ちゃん?」
「声が大きい。疲れてるの」
起きた時から感じていた体の重さは呪力消費の疲れだと思っていたが、意識がはっきりしてくると柔らかいものが体にのしかかっていると分かる。暗闇に目が慣れてきて視線を声の方へ向けると、真依ちゃんが私の体の上に倒れこんでいた。手にはいつもの銃。膝を叩いたのはこれか。
「真依ね、なまえにずっとくっついてたのよ。車にも乗り込んできて。ちょっとは上手くいってるのね」
歌姫先輩がとても小さい声で囁いた。

「五条の封印はどうなりましたか?」
「五条は……夏油傑の肉体と術式を乗っ取った加茂憲倫に獄門疆に封印されて、持って逃げられた」
「……加茂憲倫?あの?」
「あの、よ。私だって夢と思いたいわ。相手の肉体に自分の脳を乗せ換えることで、相手のすべてを乗っ取る術式を持つ加茂憲倫だった者。けど本人はそれもまた1つの呼び名だと言ってた。加茂憲倫がいた時代より前からずっとそうやって、他人の肉体を乗っ取って生きて来た、誰か」
「……なら去年の夏油は、夏油傑本人じゃなかった?」
「いいえ。きっとあそこまでが本人。今回の夏油には隠す気もなく額に頭を切った後の縫い目みたいなのがあったし、語ってた内容や思想はアイツとは全然違うわ。……これ以上の話は後。五条がいなくなって誰がどう動くか分からない。なまえはアイツ派なんだから、狙われる可能性が高い。体を休めて」
「いや、大丈夫で、他、い、痛って!!」
太腿を思いっきりつねられた。真依ちゃんだ。歌姫先輩にもっと聞きたくて起こした体をまた先輩の膝に戻すまで、真依ちゃんは無言でぎゅうぎゅうとつねりあげた。
「……真依、やめてあげて。なまえ、いいから高専までは寝てなさい」
「最後に、みんなの安否は?」
「……生きてるわよ。生きてる。全員……無事だから、大人しくしてて」
真依ちゃんがより押し付けるように体重をかけて言う。歌姫先輩も小さく笑って、寝て、と囁いた。頭に歌姫先輩の手が乗り、太腿から離れた真依ちゃんの手が私の手首を握る。五条よりずっと小さな手。……高専はきっと、機能しなくなる。五条の代わりに、この子達を守らなければ。

夏油傑。
去年のクリスマスの少し前、渋谷で傑に会って、こちら側につかないかと誘われた。
「将来、悟や硝子の死体を作るのは非術師。あの猿共なんですよ。先輩が可愛がっていた、理子ちゃんもそうだったでしょう」

世界が変わる。仲間の死体を作るのは、もう非術師ではなくなるのかもしれない。
五条が封印されて戻ってこないことは理解できた。……いや、理解できたというよりは、突きつけられた現実に、ただ頷くことしかできなかった。夏油の死体、加茂憲倫、獄門疆、これからの呪術師界の動き。何が出てきてもおかしくない世界。

ウィンカーを出す規則的な音が車内に響く。真依ちゃんの肩も規則的に上下する。手首を握る力はすでに緩んでいた。

先輩とひとつになりたい。
五条の口から初めて聞いた時、何を言ってるんだろうと思った。
それを今こうして私も思うとは。そしてこんなにも、意味が違うなんてな。

2021-04-11
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