21時28分 渋谷PARCO前。

「五条先生がぁっ封印されたんだけどー!!」
大声が渋谷に響いた。
みょうじが一般人から引き剥がした改造人間の頭を潰しながら聞いたその声は、1時間ほど前に別れた虎杖のものだった。ナナミーーン!!と続けて声が響き渡る。
「人間ってあんな声量だせるんだ」
方角からしてあっちか、と顔を上げた方向から飛びかかってくる改造人間をいなし、腹部に大穴を開けた。普段なら避ける血と肉を派手に撒き散らす祓い方は、命の危機に晒されて混乱し、誘導指示など耳に入る余裕がない一般人に精神的ショック与えて沈静化させるためのパフォーマンスである。計画通りみょうじの存在に気がつき、助けを求めて集まってきた一般人達へ建物の地下に入るように伝える。
みょうじは一息つくと、息絶えた改造人間を改めて観察する。普通の人間の質量を超えているが、引き伸ばしているだけかもしれないし、質量を増やせるのかもしれない。逆に減らすことも。例えば親指ほどの改造人間が建物に入ってきたら、一般人は対応できるだろうかと考えを巡らせた。
「改造人間……あ、ナナミンって七海さんか!?」
答えが出た所で虎杖の方へみょうじは駆け出す。虎杖がいるなら、冥冥もいるはず。そう思っての行動だった。


21時46分 渋谷駅周辺。
みょうじは渋谷駅へ向けて走る。声の元である虎杖と合流した時にはすでに七海はおらず、虎杖は伏黒と猪野と共に“帳”の破壊を試みていた。虎杖が京都の学生であるメカ丸を名乗る小型機械から聞かされた五条悟の封印、夏油傑の復活、冥冥を狙う呪詛師。
(……冥さんなら五条さんへ恩を売りに絶対に現場へ向かうだろう。夏油傑と遭遇する)
呪霊操術の夏油傑。1級術師でも相手にできる数は限られる存在。去年のクリスマスの事件は呪術師界に多くの死傷者を出したが、首謀者である夏油傑は思想を体現するかのごとく術師の積極的な殺害は避けた。
(しかし夏油傑は五条さんが殺したと報告が上がっていた。……夏油傑が五条さんに生かされていて、今回の件を2人で起こした線は……ありえる。2人は同期で仲が良かったらしいし。……それなら封印自体が嘘の可能性もある)
五条悟は1人でこの国の全員を殺せる。裏を返せば殺す以外は1人ではできない。そういう強さなのだ。そして夏油傑の、非術師を皆殺しにして術師のみの世界を作る計画。
(五条さんの封印と聞けば術師は救出へ確実に動く。術師を一網打尽に“保護”するという筋書きがあってもおかしくない)

得た断片的な情報を組み立て結論に至り、みょうじは渋谷駅へ突入した。
メカ丸のことを全く信じていないわけではない。だが日頃から冥冥のために情報を収集しているみょうじは謀略、策略への警戒心が深く根づいていた。一方で“あの”五条悟を封印したという嘘はあまりにも荒唐無稽。まだ空から槍が降ってくると言われた方が信じられる。だから最悪なのは、五条悟が夏油傑と手を組んだ敵であり、封印は嘘であること。それより少しマシなのは、五条悟が未だ味方のまま封印されたこと。
五条悟の損失は日本経済の崩壊、日本の終焉。
そしてみょうじなまえの最優先は、日本の平和ではない。冥冥ただ1人である。
情報の真偽を確定させることが冥冥の財産に直結するとみょうじは即座に理解していた。地面を蹴る足は、いつもより格段に早かった。
メカ丸の話では夏油傑が結託している特級呪霊も渋谷に複数体来ているらしい。しかし五条悟が封印されて地下5階から動かない状態が真実なら、中に何がいても今この建物を壊すような大技は使えないだろう、とみょうじは読む。また夏油傑であることが真実なら、みょうじでは相手をするのは力不足だが、状況確認程度なら容易に可能。
(ただ五条さんが捕まった地下に単独で行くのはリスキーだな。変な結界術とかあると厄介だ……。1番いいのは夏油傑が結託している呪霊と遭遇すること)
優先順位を自分の実力に合わせて並び替えながら、エスカレーターの手すりを飛び降りるように駆け下りる。地上と比べてかなり人が少なく、床や壁についた血の量も少ない。建物に損害を与えるような破壊もない。
みょうじがぐるりと地下2階を探索し終え、下りのエスカレーターに足をかけた時だった。

――見下ろした通路の先に、天井と柱でできたフレームから出て行く黒い足を見た。
それはあまりにも自然だった。
雑踏の中で見る、意識しない誰かの足取りのように。見る前に気づいて1人前の世界。呪霊の存在を捉えるのには、五感とは別の感覚を用いる術師が、目で見るまで存在に全く気がつかなかったもの。

格上の特級呪霊。

みょうじは爪で人差し指に浅く傷をつける。血が垂れて、呪力が溢れる。術式を発動する。その判断は、例えば手が火に触れた時に熱さを感じる前に手を引くような、反射防御の感覚に近かった。自分より格段に強い呪霊。呪霊階級の頂点の中でも上位。全力の防御に回らないと死ぬ。
去っていた足音が戻って来る。顔が見えた。人の形をして人から離れた、単眼の黒い服を着た呪霊が姿を現す。
「……その服装。貴様、高専関係者だな」
頭部の穴からは、まるで火山のように赤い炎と煙がうっすらと溢れている。みょうじはその風貌に聞き覚えがあった。五条悟が以前語った特級呪霊。
「宿儺の器の場所を言え」
しゃがれた声は低く、まるでこちらが言わないことを想定していないような物言いだった。火を使うという情報と見た目どおり、上ってくる熱気は凄まじく、空気中の水分が焼けつく。その目は、返事をしないみょうじを睨みつけた。みょうじは額から一筋の汗を垂らすと、口を開く。

「夏油のお使いか?怖い怖い五条悟が封印されて、やっとお外でお散歩できるようになったもんな。嬉しいだろ」

一瞬、熱気が引く。

そして肺を焼くような熱風が溢れた。息を止めても風が熱を肺に押し込もうとしてくる、圧倒的な力だった。漏瑚の目が大きく開く。その顔に浮かんだのは怒りと羞恥。知らない言葉を投げかけられたという疑問や、五条悟の封印への驚きも、その表情に一切ない。
すべては真実とみょうじは理解した。
エスカレーターの下からみょうじに向けて炎が溢れる。この時間、みょうじの発言から1.2秒。これは漏瑚が炎を出すのにかかった時間ではなく、みょうじの言葉を理解し、怒りに邪魔されながらも虎杖の情報を引き出すより殺すと判断した時間だった。
みょうじは身を翻し、爆炎から離れる。数ミリ後ろを炎の壁が迫ってくる。肉の焦げた臭いが鼻孔をかすめた。炎は酸素を喰って威力を上げ、フロアを焼き払うがすぐに消えた。残ったのは表面が焼け焦げた床と壁と天井。
非術師や並の呪術師ならまずその炎が出す光で目をやられ、あとは痛みや熱さを感じる前に脳まで焼け落ちるだろう。
階段を駆け上がり、ワンフロア上がったところはまるで別世界の気温と湿度だった。生物が生きられる空間だ。大きく息を吐き、酸素を取り込む。熱でやられて乾燥した肌や粘膜の痛みをやっと感じる。漏瑚はみょうじを追ってこなかった。
(単独血判術使ってなかったら死んでた)
黒く焼け爛れた左腕を振りながら炎を断ち切り、大きくため息をつく。左腕分の呪力の半分を体の主要機関を守るために回したのだ。お陰で左腕以外は焼けずに済んだ。
(やっぱり建物は壊さないために火をすぐに消した……。追ってくる様子もない。あのブチギレ火力じゃ死体も残らないだろうから生死とか確認しないんだろうな。……五条さんの封印は真実だし、しかも虎杖くんを探してる……?宿儺復活までやる気だろうか)
みょうじは渋谷駅の外に出て、呪力消費を抑えるために術式を終了する。
(一旦“帳”の外に出て、冥さんの代わりに作業。あと上へ特級呪霊の居場所と目的の報告。その後、冥さんと落ち合う)
“帳”の外へ向かって走りながら、左腕の肉が焼ける臭いが鼻につく。呪力で作られた炎は始末が悪い。まるで返しがついた針の様にみょうじの傷口をいたぶる。焦げて捲れた皮膚はみょうじが走る速さではためく布のような音を出した。

▼ ▼

みょうじ血判術式は、相手の血と自分の血を紙や皮膚など物質に押しつけて“血判”を作成することで発動し、恩恵と縛りを生む“契約”を作る術式である。恩恵と縛りはみょうじ本人が決めることが可能。
使用例としては敵の血をみょうじが取得し血判を作り、自分には呪力量を上げる恩恵、敵には呪力量を下げる縛りを決定すれば、みょうじの呪力量が上がったと同時に敵の呪力量は下がる。
格上に対しても自分が有利に運べる契約を作れば対応できるし、契約には2名以上が参加可能で、みょうじ本人が縛りを引き受けることで仲間を強化するサポート役としても重宝された。
さらにみょうじなまえは冥冥の側で学ぶことで術式の解釈を広げた。契約という構造上、最低2名以上いなければ術式が成立しない。格上相手にも引けを取らない術式だが、相手から血を取るまでは術式が使えないのは大きなリスクだった。
血判術の本質は芻霊呪法のような対象の一部を元に対象へ呪いをかけることである。
それなら己のみを呪うことで、自己で恩恵と縛りを完結させることが可能ではないかと編み出したのが、1人で恩恵と縛りを被る、単独血判術だった。
単独血判術により漏瑚を前にして作った契約の縛りは、自分の攻撃力をゼロにする。恩恵は身体の俊敏性の上昇。おかげで瞬時に漏瑚の表情の機微を読み取り、爆炎に飲まれたフロアから脱出ができた。そのスピードは瞬間的にだが、最速の術師と呼ばれる禪院直毘人に並ぶ。
しかしここまで振り切った契約でないと漏瑚から逃げるのは無理だと瞬時に判断できたのは、こちらが先に相手を見つけられた幸運でしかないとみょうじは理解した。単独で祓える相手ではない。
煽ったせいで攻撃力まで上げたのは想定の範囲内とはいえ、あの火力は強烈だった。寄られて直に撃たれたらフルガードしても3、4発くらえば死ぬ。

“帳”を出て、もし日本経済が危ぶまれた時にすることとして冥冥から依頼されている“緊急時作業”を終えたみょうじは“帳”の中に戻り、辿り着いた明治神宮前駅に今まさに降りて行こうとする人影をみつけた。
スーツの男が2人。
1人は芸人しか着なさそうな桃色のスーツに神経質そうな顔立ち。もう1人は歌舞伎町から来たような白いスーツ。ハロウィンの仮装をした一般人に見えるが、その2人の持ち物は仮装の範囲を超えていた。
桃色のスーツは眉を顰めて自分のナイフに絡んだ人間の髪を引きちぎっていたし、白いスーツは手にした人間の頭部を珍しそうに弄っていた。
「あんた、冥冥?」
白いスーツがみょうじに尋ねる。
みょうじは小さく頷くと、スマートフォンを取り出した。それは電波が絶たれた世界でも、みょうじにとってはとても価値のある電子機器だった。
「これを見てほしい」
みょうじがスーツの男に掲げたスマートフォンに映っていたのは、写真だった。夜景の中で優雅に微笑む冥冥の写真。
「あと852枚ある。1枚ずつ見せる時間はないから、ベスト20を見せようかと思う。この“ベスト”は“よく撮れた”の意味で、私の技術点のランキングだと理解しておいてほしい。冥さんはいつだって順位をつけられないくらい美しい」
みょうじは道に迷って友人と地図アプリを覗き込むかのように2人との距離を詰めた。
「あなた達は彼女が好き?美しさが分かるかな。分かって引いてくれるなら私も引く。これを見ても冥さんに何かしようとするなら好みの違いだ。分かり合えないのなら仕方ない」
どうする?と、みょうじは画面をスワイプしながら、優しく丁寧に問いかけた。

▼ ▼

線路の先、次々と烏がトンネルの奥に向かっていく。烏は高度を上げ下げしながら、黒い眼を輝かせみょうじの側を飛んでいく。それについて行くと烏の群れがあった。

「待っていたよ」
烏の群れが割れて冥冥の姿が見える。顔にはすり傷があり、服も汚れていた。珍しい状況だった。
「すみません!情報収集や作業で遅くなりました」
「構わないよ。五条君の件は本当?」
「ええ。本当だと思います。万が一違ったとしても、これより悪くなる状況しかないので、“帳”の外に出て、私の判断で動かせる冥さんの国内株はすべて売却しました」
「上出来」
冥冥はみょうじの耳元にたっぷりと愛情を込めてささやき、頭をなでた。
「円も替えないとね。後ろからは何か来てた?」
「呪詛師が2人。分かり合えないので倒しました。冥さんを狙って派遣されるにしては弱いですね」
線路の先で巨大な龍と共に立ちはだかる夏油傑の姿を見て、冥冥とみょうじは視線でやり取りをした。
「術式は間違いなく夏油君だよ。今は凌げているけど、憂憂が狙われると不味いね」
「やっときます?」
みょうじが親指を上げる。血判術を使うか判断を冥冥に仰ぐ時の合図だ。
「その腕の火傷に影響がない程度にね」
「憂くん、ちょっと血を出して。2人の耐久性を上げます」
「縛りは?」
「全部私が被って、呪力を今から3日の間はゼロにします」
みょうじの術式は縛りや恩恵の大きさ、血判契約を己より格上と結ぶかなどで呪力消費が大きく異なる。軽いものなら1日3、4回。重いものなら最悪1回が限度である。
漏瑚の攻撃を避けるので重めのもの1回。格上の冥冥を入れた今回の契約で今日分は終わりだ。
「十秒後に発動します」
「ありがとう。五条君が真実なら、あちらも私達を通らせる気は無いだろう。憂憂、様子を見て脱出するよ」
「はい姉様」

冥冥は烏の群を誘導し、また新しい神風が夏油傑へ向かった。みょうじは大きく溜め息を着くと、背筋がぴんと伸び、頬を染めて冥冥の勇姿を見ている憂憂の影に倒れるように座り込んだ。
「その痛みに耐えられないのでは?」
憂憂はちらりとみょうじの左腕を見る。呪力がゼロになるということは、体の耐久性が格段に落ち、火傷の痛みを非術師と同じ体で受けるということだ。
「多分気絶すると思う。死なない限り術式は続くから安心して。そういえば憂くんの術式見るの初めて」
「見られるんですか貴女。……姉様の財産を守ったのはナイスプレイです」
憂憂から差し出された手と強く握手をして、みょうじは術式を発動した。
脂汗が流れる。左腕は半分が炭化して神経まで焼ききれているはずなのに、それでもまだ痛みを感じるのは拷問のようだった。しかしけして後悔はない。
「冥さんはいつだって優雅で変わらないから、側にいると自分がどのくらい追いつめられているか分からないのが少し困るね。でもおかげで、私は冥さんのために働いていれば、きっと死ぬときも最高の気分で逝けると思う」
みょうじは大きく深呼吸をする。
「幸せだね、私達」
「全くです」

憂憂の朗らかな声の同意を聞き、みょうじは目を閉じた。

2020-12-30
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