目を開けると、暖光を落とす全く見覚えのないクリーム色の天井。起き上がると着ているのはバスローブのみ。焼け焦げた左腕は白い清潔な包帯で固定されている。眠っていたキングサイズベッドから見える外には双子のようなふたつの高いビルがあり、どこか分からない美しい夜景が広がっている。ほのかに香るグリーンフローラルのルームフレグランスに、テーブルの上にはみずみずしいフルーツとシャンパンセット。

あの渋谷とは真逆の世界だった。
夢の続きかと思いきや左腕に痛みが燻っている。とはいえ突然すぎて、もしかして死んだ?走馬灯みたいではなく走馬灯?ベッドの右には通路があり、左は天井から床までを覆う長いカーテンと全面ガラス窓。インテリア、内装、清掃、香り、リネンの質。どこをとってもハイクラスホテルであることは確かだが、どこのホテルかが分からない。
ベッドから立ち上がると数歩で足がふらついた。手をついたテーブルには服の内ポケットに入れていた私の財布があった。持ち上げると、小銭が机の上に音をたてて転がり出る。開けていない財布から小銭が落ちるマジック?裏返すと財布の素材である皮の水分が全て干上がって、薄い紙のように脆く黒く焼け焦げ、穴が空いて、溶けた硬貨がこびりついている。あの渋谷が夢でないと証明してくれた。
落ちた小銭は転がって、机上のルームサービス表にぶつかって止まる。ホテルのロゴがないか見てみると、中身は全て英語表記なのに値段に添えられた単位はドルではない。
窓の外に広がるのは平和な夜景。
明かりは多いが、極端に高いか低いかしかないビル群と、都庁を削って尖らせて倍に引き伸ばしたようなツインタワー。寝ている間に何十年も過ぎていたSF映画を思い出す。ガラスに映った自分はバスローブを羽織っているが、上半身は裸で左腕のみ布で指先まで隙間なく覆われ、下半身は下着のみ。……救助隊が来てくれたのだろうか。左腕は切断だと思っていたが、激痛はあるものの、あの芯まで燃やそうとする痛みがない。腕は、まだきちんとここにある。

「お疲れ」

耳元に突然来た吐息と声に飛び上がりそうなほど驚いた。
反射的に体が飛び退くが、普段できる動きと今できる動きの差が足を絡ませた。と、思ったときには、もう冥さんに抱きとめられていた。
「さっきは素敵な呼び出しをありがとう。声だったら聞き逃していたかも」
「……まさか小銭を落とした音で来てくれたんですか!?」
「おや、違ったの?流石だと思ったけど。……景色を見ていたのかな。まだ発展途上だけど、綺麗だよね」
「ここは……?」
「クアラルンプール。憂憂の術式で退却してきた。ただのホテルだから安心して滞在してくれていい。部屋は……明日の朝にでも案内しようか」

冥さんは私をベッドに座らせて前に立つと、布で巻かれた左腕を指先から肩までゆっくりと撫でてくれた。冥さんもまた私と同じバスローブ姿でその胸元は大きく開き、普段は編んでいる髪が腕の動きにあわせ揺れる。こういう仲でも目のやり場には困る。視線を床に落とす。足の裏を包む抽象的なデザインのカーペットがこそばゆい。こそばゆい。めちゃくちゃこそばゆいわ。こそばゆいことだけ考えろ。
「腕の調子はどう?」
「窮屈さはありますが、痛みはほぼ無いですね。これ呪符ですか?」
「忘れたの?なまえの実家にあったものだよ。呪具“至金縛”売るタイミングを待って寝かせていたけど、持っていてよかった」
思い出した。
巻いた患部へ反転術式を付与する力が宿った布だが、家入さんのような術師がするより治療速度がかなり遅い。さらに単純に治すのではなく、術式“付与”だから、無理やり操作されるためにかなり体に負担がある。体力のない人間なら衰弱死する。特に呪力を扱えない非術師向きではないが、それでも不老不死の布として高値で取引されていた、私の家の蔵にあった秘蔵の品。家の財産はほぼ溶けてなくなったけど少しは生き残ったので回収し、お金になりそうだったから冥さんにあげてしまったのだ。

「冥さんも頬の傷に使ってください」
「なまえの処置に使い切ってしまったよ。君が思っているよりその怪我はずっと酷い。かなりの格上にやられたみたいだね」
「そうですね……まともな戦闘になっていたら、確実に死んでましたね」
そう、と返事が落ちて来て、ふわふわと柔らかく、しっとりとした温かい肌に包まれる。バスローブがはだけた冥さんの胸に抱かれていた。これは珍しいことではないが、いつもと少し、抱き方が違う。抱擁というより、束縛に近い強さがあった。
「この匂いを覚えているかな」
ブラックチェリーのカクテルのような香り。脳の奥までその香りにあてられて恍惚としてしまう甘い匂い。けれどこの甘さは可愛らしい甘さではない。脳が浸る甘さの一方で、その肌に近づくとウッド系の温かみがくれる安らぎもある。どちらにも振りきらないアンバランスさが危険すぎるこの香りは、以前どこかで嗅いだことがあった。
「思い出した?私が最初になまえを抱いた時につけていた香水だよ。匂いに敏感だよね、なまえは。君が譫言でこの匂いが好きだというからおあずけにしていたけど、久しぶりにね」
耳の縁を舐められて外から中まで舌が這う。視界の端に見えた香水の真っ赤な瓶は放られてソファに転がった。
「なまえは私の恋人であり、資産だ。数ヶ月前とは状況が違うことは理解できているかな」
「そう、ですけど」
「誰もその肌に触れさせたらいけないよ。私と触れ合うための肌だろう?」
冥さんのバスローブが全て落ちる。
唇が合わさる。息継ぎの時に見えた舌なめずりをするその赤が、まるでさっきの香水のように赤い。冥さんの体がいつもよりずっと熱い。合わさった肌と肌の間にうっすら汗をかきそうなほどだった。その熱で匂い立つ香りが強くなって、ますます溺れるみたいに脳が浸っていく。柔らかい、気持ちがいい、落ち着く、生きてる。

「……声がかすれているね」
ベッドサイドにあったミネラルウォーターの封が開く音がして、熱い舌と一緒に水が口に流し込まれる。
「死んだら駄目だよ。いくら私のためでも」
体が離れて、じっとその瞳が私を見る。上目遣いの視線は滅多に見られない表情だった。
「でも私は、冥さんが1番で」
「それは知ってる。でも目先の損失に捕らわれて短慮な判断はらしくない。私を失望させるのが怖かった?私達の関係は?」
「こ、恋人です」
「よく言えたね。大きな進歩だ。なまえが株や不動産を売却したタイミングと、もし私がこちらへ退却してから自分で売却したタイミング。この時差で起きた損失より、君を失う方がずっと私は損をしていた。世界が揺れるのはこれからだよ」
五条さんの封印で、息を殺していた呪詛師や、隠れる知性のあるレベルの呪霊が姿を現し始める。これからはもっと私の出番が増えるだろうに、死んでも悔いはないという気持ちで重症を負うことを許容したのは、冥さんの言う通り浅はかだった。
「自分の外見、内面、知性、術式、技術、力量、経験。そしてこれからの私への貢献。なまえは自分の価値を全て軽くみすぎているよ。謙遜は時として不遜より害だ」
「すみません……反省します」
抱きしめてくる腕の力が強くなる。もう私達の間に隙間は少しもない。冥さんの白い肌が赤く色づいてきた。
「謝って欲しいわけじゃないけど。そうだね、なら、恋人の頼みを聞いてもらおうか」
視界が逆転し、私が上、冥さんが下になる。左腕が不自由で倒れそうになった体を体幹で制して冥さんを腿の間に収めたが、が。
「今日は私にして欲しいね。傷に障らない程度に」
その目がいつになく、ぎらぎらと猛っている。攻める側を明け渡されたのに全然そんな気がしない。……あぁそうだ。憂くんが言っていた。かなりひさしぶりに冥さんが追い詰められたと。
「任せてください。けどそれなら、傷に障るのは気にしないでくださいね。ちゃんと私も鍛えてますから」
「フフッ……それは頼もしいね」
「ところで冥さん。例えばの話ですが……今回売却した資産を全部損失していたら、冥さんが見積もってる私の価値と損失額、どっちが上でしたか?」
冥さんはにっこり笑う。はぐらかされた。……愛してます……そういう所……。
役に立ちたい、約束を守りたい、世界中が不幸になっても冥さんだけは幸せでいてほしい。
彼女の胸に沈みながら、血肉にまみれた渋谷と故郷が重なった。

▼ ▼

目が覚めると唇が少し引きつれていた。指で拭うと茶色いものがつく。舐め取るとほのかに甘く、冥さんが昨晩食べさせてくれたナイトチョコの残りだった。……攻めてって言われたのに結局何かする前にいつも通りの感じになってしまった。多分私が緊張して震えまくっていたせいだろう。どの面下げてなにが任せてくださいだよ。
過去の自分を恥ずかしく思いながら起き上がる。ベッドには私1人で、昨晩は真っ暗だった全面ガラスの窓の向こうには青空とクアラルンプールの景色が広がっていた。
ホテルで1番困る所は大きな時計が無い所だ。時間を忘れて滞在して欲しいという気遣いなのかもしれないけど。
ベッドサイドで極力存在を薄くしている置時計を見に転がると、黒い紙袋がベッドの上にあった。昨晩は無かったもので、なめらかな手触りの紙袋には金色のリボンがつけられており、筆記体で私の名前が書かれていた。オシャン。開けてみると、薄い生地の柔らかなガウンとブラトップ、それから下着が入っていた。全く動かない左腕を考慮してくれた服だ。色合いやデザインは冥さんの好みだけど……ただ名前の筆跡が冥さんではない。誰からのプレゼントだろうか。

貰ったもので身支度を整えて部屋を出ると、大理石の廊下に見知らぬ男と憂くんがいた。現地の住民らしき顔立ちの彼は、俳優のように恭しく胸に手を当ててお辞儀をする。
「おはようございます。お体は大丈夫ですか?お洋服もお似合いで良かった!」
バトラーを名乗る彼は日本語ができて、左腕を骨折し熱を出して寝ていたという私にお見舞いの言葉をくれた。そういう設定だったのか私。服も冥さんから頼まれて彼が買って届けてくれたものらしい。バトラーってそんなことしてくれるの。
「朝食の準備をありがとうございます。また呼びますので、今はもう大丈夫ですよ」
憂くんの言葉でバトラーはまた深くお辞儀をして去っていった。
「おはよ、冥さんは?」
「姉様は奥の寝室にいます。取引について各所へ連絡と“世間話”を。とにかく協力者は食べて寝てさっさと治してください」
指をさされた先のテーブルには、ディナーメニューだろというステーキが席の前に置かれ、エッグベネディクト、焼き立てパン、粥、フレッシュジュース、サラダなどが並び、飾りのように南国の色とりどりのフルーツがレイアウトされていた。
椅子に座ると、憂くんが横からエッグベネディクトとステーキを無言で引き寄せて、食べやすいサイズに切り分けてくれた。
「協力者は今回頑張りましたから」
「ありがたき幸せ。憂くんは食べないの?」
「僕は姉様と一緒に食べます」
晴れ晴れとした笑顔は、暗にさっさと食って寝室に行けということだ。私も待ちたかったが、まさか1人1部屋ではなく、3人1部屋だったとは思っていなかったので、素直にフォークを持つ。今日は憂くんが優先レーンだ。
美しくきらびやかな朝食を体のエネルギーに変えていると、紅茶を冥さんに届けて戻って来た憂くんは私の隣に座り、自分の紅茶をティーカップへ注いだ。
「前から思ってたんだけど憂くんは、冥さんの恋人が私でいいって思ってる?」
憂くんは冥さんと同じ手つきで紅茶を飲んだ。
「思っているわけがないでしょう。でも姉様に並び立てる人は、世界中探してもいません。だから恋人にふさわしい存在なんてどこにもいません。なら、姉様の何を愛しているかわからない男より僕と同じ志を持って、姉様に有益な術式を持ち、有益な働きを心からする貴女がマシです。その点では僕は協力者を認めています。けど」
溜め息をつきながら憂くんは、トーストにバターを下手くそに塗り続ける私からバターナイフを取り上げ、丁寧にバターを塗って私の口にパンを突っ込んだ。
「僕が、今日は姉様と一緒に寝ますから」
めちゃくちゃドスのきいた声で睨まれた。認めてるけど許してはない。そういうところ、好きだぞ。

2021-02-07
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