※「冬が来た」とつながっています



「いこっ」
語尾が跳ね上がったその声は妙に幼く、目の前の2メートル近い男が出したと理解するのには、長い付き合いが必要だった。
彼が買い、また置いていった炬燵の中で眠っていたみょうじの前に現れた五条は彼女の後ろに立った。
「どこに?」
「言ってた神社、しるこが美味しい所」
「もう終わったんじゃ?」
「鏡開きまではやるよっ、と」
両脇の下に両手を突っ込まれ、みょうじは炬燵からひっぱりだされる。その背中に五条は自分の頭を押し付けて「温いね」と呟いた。冷たい髪の毛がみょうじの首筋を撫でて、ぶるりと体が震えると、五条は喉で笑った。
無限は冷気を遮断できても、特別に中が暖かいわけではない。雪の予報が続く街から帰って来た体が、暖かい部屋にいた人間の体温を奪うのには特別な力は必要なかった。

休日の予定が実現されないことは責任が大きくなるにつれて増え、みょうじは五条と話したことさえ忘れかけていた。そして丸1日休みでも、急ぎの任務が振られたときのため、すぐに出られるように身だしなみを整えるみょうじの癖は仇になった。
「はい、コート。バッグは僕が持った」
部屋の構造を知っている五条は、クローゼットから1番暖かいダウンジャケットをみょうじに投げ、彼女のバッグを勝手に取ると大股で廊下を歩く。玄関にあるキートレイから部屋と車の鍵を持ち上げて指先で回すと、トレイ横に置いておいたボストン型サングラスにかけ変えた。
「似合ってる?」
「ヤバいイケメンが自宅で爆誕してしまった」
みょうじの褒め方はおかしかったが、ただ「イケメン」や「カッコいい」という言葉だけでは足りないと五条が催促するので、聞かれるたびに言葉を変える必要があった。


昨日の雪が、車の上に薄っすらと残っていた。
ふたりは示し合わせたかのようにその雪を無言でまとめて、みょうじが下段、五条が上段を丸め、小さな雪だるまをそこに作った。3人旅の始まりである。
エンジンをかけ、緩やかに出発する。少しその辺りへという気軽さで車を出したが、五条の望む目的地に向かうなら、今からみょうじは約6時間も1人で運転をするはめになる。けれどこういう計画が予定通り行われたのは、片手で足りる程度の回数しかないことを彼女は知っている。気負わずにアクセルを踏んだ。
「シートの位置が違った……乗せたな……僕以外のヤツを」
「そのネタ好きだな。硝子ちゃんだよ」
「本当だ。スルメの袋が残ってる」
五条のくつろぎやすいシートの位置は誰とも合わない。みょうじは何度か助手席に彼以外を乗せた後、五条が好むシート位置に戻したが、必ず気づかれるので最近はそのままにしていた。
五条は居心地のいい座り方を決めて、みょうじの部屋に来たときからずっと持っていたビニール袋から飲み物を取り出した。
「飲み物買ってきたよ」
「ありがとう。何ある?」
「マックスコーヒーと、苺ミルクと、コーラ」
「水」
「え?いちごミルク?」
「水」
「いちごみるく?」
「みず」
五条はわざとらしく溜め息をつくと、ミネラルウォーターのボトルをビニール袋から出し、キャップを開けてみょうじに渡した。本当にただの水か恐る恐るみょうじは口をつけると、無味無臭が喉を潤す。水だと渡されて、透明な甘い飲料だったことは過去数回あった。特に現在加熱しつつある透明飲料ブームは、みょうじにとって向かい風だった。
外は人々が寒そうに体を丸めて歩いている。五条は暑くなって、巻いていたマフラーを外すとみょうじの首に巻いた。かまっての合図にみょうじはされるがまま目の前の信号を見つめる。
「目的地まで6時間くらいかかるけど、本当に行くの?」
「僕も迷ったよ。なまえ先輩に6時間も運転させるなんてさ。伊地知にもさせないよ?だけど閃いたんだ。6時間もなまえ先輩を僕の隣に固定しておけるなって」
「次の右折でUターンするから、頭気をつけてね」
「はいはい直進〜」
助手席から脚を割り込み、五条はアクセルを踏む。次は狭い座席の車を買おうと、みょうじは顔をしかめながら決めた。

▼ ▼

東京を出る頃だった。赤信号で停車すると、フロントガラスをすり抜けてバックミラーにぶら下がるものがあった。蠅頭だ。小さな羽と鳴き声だけは共通しているが、顔については個体差があり、今回はあまり人好きのしない顔つきをしていた。五条がまるで埃でも散らすように手をゆるく振ると、蠅頭は低い声を上げて黒い煤になって落ちた。
「そうだ、この車を改造したんだった」
独り言のような急なみょうじの言葉に、五条はその横顔を見つめた。
「そういうのするタイプだったっけ?新たな目覚め?」
「新たな試み。バンパーに私が構築した樹脂をつけてみたんだ。この前、3級と車が衝突した事件があったの覚えてる?」

級数さえつかない低級呪霊は、呪力を持たない物質をすり抜けるが、級数持ちは人間が見える見えないに関わらず、そこに存在する。
ただ級数持ちが車の往来する道路に佇んでいることは多くない。目的がない呪霊はその性質上、道路のような人間の流れが流動的な場所より、安定して人間が留まり、長く静かに人間を襲える場所を好むからだ。
極稀に発生する呪霊と自動車との衝突事件は、大体が悲惨な結果になる。非術師は見えないためブレーキが踏めない。見えているものと衝突する場合と違って、体は反射的に防御体勢を取れず死亡することが多い。結果、事故の理由は運転手の過失か外部要因か分からず、灰色の事故になって埋もれていく。

「補助監督からもたまに聞くんだよね。今までは道路が広くて避けられたとか、運良く術師を乗せてて対応できたとか。でも呪霊のレベルは上がってきてる。呪霊が道路に突然降って来たり、避けられず直進を迫られるケースとかがきっと出てくる。隣の脚長マンが無理やりアクセル踏んでくるとかね」
「みんなにはそういうのが無いことを祈りたいね」
「そうだね。だから、車のバンパーに呪力を宿すことで、威嚇や轢き飛ばすことが可能にならないかなと」
「成程。3級くらいまでなら有用そうだ」
呪霊は普通の車と接触してもダメージはない。だが呪力を纏った車が己に迫っているなら、知能が少しある3・4級のモノなら距離をとるはず、というのがみょうじの考えだった。道路をうろつくものは、その程度の級数が最も多く、噛み合った発想だった。
「なので今日は呪霊を見つけたら轢くので、祓わないでね」
「そう上手く道路にいたらいいねえ」
「都会のど真ん中はいないかもだけど、県外に出ればいくらかいるよ。下道を使うね」
「了解。盛り上がってきた」
下道を使うとなれば予定の6時間以上かかるだろうが、あっさりと了承した五条は機嫌が良さそうにマックスコーヒーを手に取る。五条が目的地に行く気は薄れているとみょうじは気がついていた。

五条が見つけた面白いネットニュースの朗読、最近の任務、車内から見える景色から派生した雑談、みょうじが汗をかいていないのに額を拭ってやるという、五条の良い後輩演技による世話焼き。大笑いも静寂もないが、もしここに第三者がいれば、きっと驚くほど2人の会話は続く。
東京を出て2時間ほど経ち、下道に入る。この辺りにいると検討をつけたのは、みょうじの経験からの勘だった。五条は特級という立場上、上級呪霊祓除や上級術師任務の引き継ぎが多い。一方、みょうじは低級から上級まで、調査任務を得意とするため、多くの街を見慣れていた。下道をしばらく走り続けると、型抜きして置いたような大型店舗が徐々に少なくなり、民家や山、それから田畑、すべてが雪化粧を施された、のどかな風景が広がった。

「車の改造って、いつからしてたの?」
「正月に。暇だったし」
「話は変わるけどさ、構築術式って術式終了後も構築物を残せるのが強みでしょ。でも先輩は構築したものを消すことが多いけど、アレなんで?」
「……そうだなあ……私は消すことで構築に使用した呪力の一部を回収できるんだよ。それに残すと構築術式ってバレやすいしね。構築術師は術式の隠蔽がしやすいのも強みだし」
「……なるほどね。いやさ、年末に構築術式に似た術式の呪詛師を調査したからさ。気になって」
「呪詛師?珍しいね。五条がいたらいる呪詛師も出てこないでしょ」
「そ、だから生徒のバックアップで。それにしても呪詛師って命乞いするときに、きまって呪詛師やめて田舎に帰るとか米作るとか言うのなんでだろうね」
「この景色見て思い出して話を振ったろ」
「アタリ。だって多くない?」
「普通の術師は命乞いなんて数えるほどしかされないから。冥さんとかに聞いてよ」
「そうなの?でも甘く見すぎだよね農業を。人に害を為す奴が一転して人のために米を作れっかよって話」
無理無理、と五条は自己完結して窓を開ける。冷気が車内に流れ込み、吐く息が白くなる。みょうじはさっきまで暑苦しかったマフラーに感謝した。冷風に晒されてさらさらと流れる五条の白髪は美しかったし、徐々に赤くなる皮膚を可愛いと思った。
五条はみょうじと一緒にいるときは無限を張らない。一緒に寒さを感じて、遥か彼方の大気の流れに文句を言う。冷たい手をみょうじの首に差し込む。怒られると同時に、冷たすぎると心配される。五条の冬の楽しみだった。

ふと、2人の目が遠くの1点に定まる。
道の脇に、瓢箪のような肉の体に脚が6本生えたものが立っていた。頭のてっぺんにある顔は空を見上げており、樹洞のような穴の目からは血が滴り落ちている。意志を持ってここにいるという雰囲気があった。
「……事故か殺人かな」
「もしこれで上手くいっても、なまえ先輩が補助監督に知らせて実装はしないんでしょ」
「うん。追い詰められると、きっとやっちゃうからなぁ……」
補助監督は戦闘行為を基本的に行わない。理由は様々だが、特に戦闘能力を持たない補助監督は、術師や一般人を守る手段に繋がるものがあれば、それを使う者も出てくるだろう。補助監督を守る目的のために作ったものが、補助監督が人を助けるために車ごと突っ込む手段として使われるのは避けたかった。

▼ ▼

結果はそう悪くなかった。
轢いた呪霊は3級。呪霊はバンパーに当たって、道路脇の無人の空き地へ転がって行く。車内にも、乗っている人間にも問題はない。呪霊は数秒動きを止め、起き上がって来た所を五条が術式で仕留めた。
「割と威力出たね。このくらいなら逃げる時間稼げるでしょ」
「……そうだね……」
「気にしない気にしない」
「あー……タイヤ替えてくる」
唯一の被害として、呪霊の爪が前輪の片方にかかりパンクした。緩やかに傾く車内で、みょうじはうなだれて外に出た。
「手伝うよ?」
「ありがと。でも1人の方が作業しやすいやつだから、呪詛師の再就職について考えててよ」
「アイツらにさせる仕事なんて、海に流れ出た重油吸わせるしかないでしょ。お、第一村人発見」
五条も外に出て畑の向こうを指差す。初老の女性が白菜を積んだリヤカーを、ゆっくりと引いていた。先にある倉庫らしき建物には、まだ距離がある。
「さっきの呪霊絡みの事件がなかったか聞いてくる。交換終わったら電話して」
みょうじはスペアタイヤを転がしながら、五条の背中を見送る。丈が短い黒いジャケットにサングラス。高専の頃の彼を思い出した。頬に冷気が当たりひりつく。五条も寒そうに肩をすくめて非術師の方へ歩いて行く。

高専の頃から五条の性格は良くない。行き過ぎた行動ばかりする。しかしあの規格外の強さと地位を持った人間にしては、人を慮る善性を五条は持っている。行動の感覚の基準が自分なので、ずれるときは大いにずれるが。そして大人になって、自分より弱い術師、非術師への見方が大きく変わった。そしてそれは彼自身をも変えた。人として良い方に。だから今、教壇に立っている。
みょうじは、教師をやっている五条が好きだ。夏油がいなくなった後の五条は、直接的になにかを言うことはなかったが、ひどい状態だった。だが今の彼の周りには教え子達がいる。いつかもし自分や家入がいなくなっても、彼の周りには聡い教え子達がいてくれる。

タイヤを替えて電話をかけようとしたとき、五条が戻ってきた。手にはビニール袋がひとつ。
「呪霊の話は聞けなかったけど、白菜を運ぶの手伝ったらおはぎをもらったよ。もう、しるこはいいや」
「そっか……じゃ、帰ろうか」
「お、ドアの所も結構でかい傷がついたね。買い換え見越してやったんでしょ?」
「そろそろガタが来てたしね」
「次の車、僕が買おうか?」
「絶対やだよ。ドアが上に開く外車とかノリで買ってきそうだし……」
「だってなまえ先輩、僕が寛げるようにシートが広い車を選んでくれてるでしょ」
「そりゃ1番よく乗せるのが五条だから」
「ふぅん?」
口元をにやつかせたのを、みょうじは悪巧みと勘違いした。
「買うなよ?絶対に買うなよ」
「振り?」
「振りじゃない」
車に乗り直し、引き返す。五条はタッパーをセンターコンソールに置いた。中に入っているつやつやした立派なおはぎは、すでに溶けた雪だるまの代わりの新しい旅仲間だった。
「じゃ、せっかく五条いるし、車を見に行こうか」
「いいね」
簡潔な返事だったが、サイドミラーに映る五条の笑顔は今日1番のものだった。

2021-01-20
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