※120話 七海さん生存if

みょうじは救助隊員に肩を強く揺らされ、歪んでいた視界がやっと定まった。
目の前にはアスファルトの地面。赤い染みが8つ。
一体なにがどうなっているか分からず、現状把握に10秒ほどかかった。
この染みは自分の鼻血で、隙間風のような音は自分の息切れ。慣れない呪力操作を酷使したせいで脳が耐えきれず意識が飛んでいた。
理解は済んだが、記憶が定かではない。ついていた膝を地面から離し、立ち上がる。困惑と心配の視線を送る救助隊員と目が合う。急に垂れて来た鼻血を拭うと、額から顎まで汗が吹き出た。眼前の駅入り口が白昼夢のようにぐにゃりと歪む。
「視界がおかしくなったら脳の限界だ。術式を止めろよ。死ぬぞ」
そう家入に言われたのを思い出し、みょうじは己の呪力が探知している先を見る。数メートル先の駅の地下。
――なんだっけ。自分はなんでここにいるんだっけ。

落ちてきた前髪が邪魔で、血がついていない左手でかき上げようとして、その手にあったネクタイに気がつく。
みょうじの目に、やっと元の光が戻った。
みょうじの任務は3名の呪術師の居場所特定と救助隊員派遣のフォロー。
3名の呪術師は、1級術師 七海建人、2級術師 伏黒恵、3級術師 釘崎野薔薇。
釘崎は居場所を特定し学長へ伝達済み、伏黒は交戦中のため一旦保留。残りのあと1人は。
「七海術師は、そこの……駅、地下に……」
みょうじの言葉で救助隊員は駆け出そうとして、みょうじに肩を掴まれた。正気かと救助隊員が振り返ると、その手は小刻みに震えており、顔色は白く、鼻から血がまた流れ出した。
「試したいことがあるので、少し待って下さい。私が無言で倒れたら、危険なので地下には絶対行かないで下さい」
たった数メートル先。なぜ彼女に止められたかは分からない。だがどう見ても満身創痍の彼女が絞り出す指示に、何かが地下で起きていると救助隊員は理解した。

みょうじは息を深く吸って、吐く。
術式操作のための冷静な思考と、最後の呪力を振り絞るための強烈な感情を呼び出すため、ここに来ることになった記憶を思い出すことにした。

▼ ▼

『渋谷に突入した術師達の探知をしてもらいたい。手元にある人員分だけでいい。品を持って急ぎ現場に来てくれ』
学長から電話が入ったのが22時頃。術式による術師の探知は学長と進めていた案件で、任務中に行方不明になった術師の捜索を見越して試していたが、こんなに早く実戦でやるとは思ってなかった。手元にあった品を持って、私と同じく追加要員として待機させられていた補助監督さんに車を出してもらった。

そして車内で追って受けた電話で告げられたのは、五条さんの封印。
渋谷の戦局が最初と全く変わってることを知らされる。現場は携帯が使えないから、情報伝達の足になっている補助監督さん達のサポートに招集されたと思ったが、そんな簡単なものではなかった。
補助監督さん達と次々連絡が取れなくなり、恐らく現場で狙われて殺害されていること。
渋谷の呪霊階級は高くても1級数体、あとは群れを成す低級だと思われていたが、特級が複数体混ざっており、さらに複数人の呪詛師が術師と戦闘中であること。
現場に出てる戦力が圧倒的に少なすぎるというのは、誰が見ても明らかだった。けれど中の様子がつかめない中で闇雲に増援しても、投入先を間違えれば1級でも即死する。今できるのは負傷した術師の発見と、救助隊員の派遣。だから居場所特定のために私が呼ばれた。

現場に到着し、誘導された先には学長と家入さんがいた。
持って来られた品はたった3人分しかない。野薔薇ちゃんが以前使っていた金槌、伏黒くんの使用履歴がある呪具、七海さんが呪力を込めたネクタイ。それぞれの品から呪力を拾い、探知する。
まずは動かない野薔薇ちゃんの方角と距離を学長へ報告。次の伏黒くんは激しく動き回っているため恐らく交戦中。そうなると下手に救助隊員は送れないが、彼はこの救護所を知っているし、距離からして近いので自力で戻って来るだろうと相談し結論に至る。問題は七海さんだった。
「学長、自分が現場に出てもいいですか」
「……何故だ?」
「七海さんの側にかなり強力な呪力があります。敵か味方か探りたいんですが、さっきからやけに呪力を消費しているので、近づいて節約したいです。それに七海さんは呪力切れか瀕死なのか分かりませんが、呪力がかなり弱々しいです」
私の呪力探知は探知対象の位置・数・格、これらの数が私と開くほどに呪力消費が多くなる。さらに感知対象の周囲にある、呪力を持つモノも探知できるが、それも呪力消費に直結する。七海さんの近くにかなり強い何かがいる。あとは弱いものも大量に……。それでもここまでの呪力消費は……。
「過度の呪力消費は、本来の術式が出ているんじゃないか?」
家入さんが吸っていた煙草の火を壁に押し付けて消した。
「かもしれません」
私の術式は、通常はありえない2つの能力を有している。呪力探知と、他者を踏み台にしたカウンター近接攻撃。これについても調査を進めていて、元々はひとつだった能力が、私の術式操作が下手でバラけて出力されているのではないか、と相談を受けてくれた家入さんは予想を立ててくれた。
だから不完全な今の能力を使い続ければ、いつか術式操作に慣れてふたつがひとつに纏まり、正しい術式が発現すると思っていたが、今この呪力探知を失うのは困る。そして、完全発現したとしても一体何の能力か検証している暇もなく、ただ無駄に呪力が失われて行く。タイミングが最悪だ。

学長も軽く頷くと、サングラス越しに私に視線を合わせた。
「分かった。救助隊員を連れて七海の元へ行け。……無理だと思ったら引き返せ」
「了解です」
プレハブの救護所から飛び降り、方角を探る。
「なまえ!」
家入さんの声が響いた。
「視界がおかしくなったら脳の限界だ。術式を止めろよ。死ぬぞ」

2本目の煙草の煙を吐き出しながら彼女は言った。


▼ ▼


やっと記憶が整理できた。
もうかなり視界が危うい。けど、術式を止められない。これでいい。思考と感覚がどんどん研ぎ澄まされている。
本当は、渋谷に到着して探知を始めてからずっと絶望的な気分だった。七海さんは強い。だけど、それ以上の禍々しい呪力が渋谷の中をひっきりなしに動いている。
そして七海さんの呪力に触れた時、それは今にも消えそうなくらい微かだった。七海さんの術式で、あそこまで呪力が切れることはそうそう無い。
七海さんが動いているのが分かる。その動きが死を私に見せつけてくる。そして後方からドス黒い呪力がまるで蛇が獲物を探るかのごとく、ゆっくりと七海さんに向かっている。万が一、味方ならこんな動きはしない。
もうどんなに急いでも間に合わない。だから賭ける。
七海さんを起点として、私の呪力を広げる。
分かる。
あれは、1度だけ触れたことがある呪力。家入さんに見せてもらった、死体保管所にあった改造人間の中に残っていた呪力。七海さんの報告書で読んだ、ツギハギ呪霊。
分かる。
七海さんの目の前に広がる呪力の塊は、全部そいつが作った改造人間だ。こんなにはっきり無数にある呪力を捉えることができたのは初めてだ。

心臓の鼓動が早く大きくなる。卵が孵化するとき、雛が内側から殻をつつくように心臓と脳が揺れる。私の、本当の術式が産まれる。それが解った。
七海さんが改造人間と次々交わって行く。そんな体で動き続けたら死んでしまうのは、七海さんが1番分かっているはずなのに。でも彼はやめたりしない。そういう人だから。
頭の中は冴えている。探知するたびに精度が上がる。改造人間のひとつひとつの大きさまで分かってきた。
心臓の血管がのたうち回る。神経を直に指でなぞられている。これが脳が焼き切れる感覚なのだろうか。でも頭だけが別の世界にあるみたいにまっさらで、私はひとつしか考えていなかった。
唯一残った可能性。新しい呪霊の殺し方。


「見えるんです、私にだけ、こういうものが」
ふっと、七海さんの声が聞こえた。辺りを見回すが、あるのは渋谷の街並みと、不安そうに私を見つめる救助隊員さんだけ。
幻聴。違う。これは記憶だ。まだ私が七海さんの元で指導を受けていた頃の記憶だ。十劃呪法の“比率”と“点”はどんな風に見えるのかと、聞いた時の答え。
七海さんはジャケットの内ポケットからボールペンを出すと、1本の線を書いた。それを縦線で分割し、右から3番目に丸をつけた。
「術式を使うと、対象にこういう風に見えます。この点を叩きます」
「誰かから教わったんですか?」
「いいえ。私の術式はシンプルなものですから。見たら解りました」


確かに、見えた。術式と自分が繋がる。
七海さんの言う通り、今私も見えた。自分の術式の使い方を知った。
私の中の、呪力のうねりが変わる。

“呪力探知”と“他者を攻撃しようとしている対象に、私が攻撃すると高ダメージを与える能力(その攻撃対象は対象の呪力に関連する式神など呪力関連物にも及ぶ)”。これらがどう組み合わさるのか全く分からなかった。思いつかなくて当然だ。
私の本当の術式。それは、“呪力探知を介して他者と繋がり、繋がった対象を囮にして、敵が囮に攻撃しようとした際に私がカウンター攻撃を遠隔で繰り出す”。
他者媒介攻撃の術式。これが答えだ。
ずっと使い方を間違えていたのだ。「呪力探知」は、囮となる他人と繋がり、囮の動向・囮に近づいた敵の探知・囮と敵の接触を感じるための能力だったのだ。そして他者という面倒な手順を踏むことで、カウンター攻撃の威力を底上げする縛り。これを私はバラバラに今まで使っていたのだ。
あまりにも非人道的すぎる。簡単にいえば釣りと似たようなもの。自分は安全な場所にいて、他者を餌にし、魚が餌に食いついた途端に私が水面から刺す。この術式が途絶えた理由が分かった。まともな人間が持つ術式じゃない。普段なら絶対に使いたくない。
でも今は感謝している。

恐らくツギハギは七海さんに直接触れるか、改造人間で殺しにかかるだろう。その時、七海さんは攻撃される対象になる。私と七海さんは呪力探知で繋がっている状態だ。条件は揃っている。
だからやる。ツギハギが七海さんの体に触れて術式を発動した瞬間、七海さんの体に術式効果が届くまでに、私の術式を発動する。
タイミングをコンマ数秒遅れただけで、七海さんは改造される。
やったことはない。
でも、できないとは言えない。
やれ。
必ずやれ。
自分しか七海さんを守れない。
だからここで死んでもいい。やれ。

すべての感覚を七海さんに定める。たった数メートル先なのに、もっとずっと先に感じた。七海さんとツギハギ呪霊、ふたつの呪力が触れ合う先を探す。
最初に消えたのは嗅覚で、次は音だった。五感が次々閉じて行き、頭の中の空間がぐっと狭まる。まるで、私自身の意識も繋がる方へ引っ張られる感覚。
脳の奥、呪力が収束する場所、七海さんと繋がっているその先。
景色が見えた。霧のかかった静かな森、朝もやの中で露に濡れる芝生。黒い空に青とオレンジを流し込んだ鮮やかな色彩の夜明け。寄せては引く波、淡い色彩の海。
なんの、記憶だったのか。そうだ。テレビで見た、七海さんが行きたいと言っていた、たくさんのどこかの景色。
思い出した時、すべてはかき消えた。体中から血の気が引き、悪寒がする。微かに香る、雪原にしかないあの澄んだ死の香り。また感覚が閉じてすべてが無になる。
きっとこれは走馬灯かあの世。あの世に海があるなら、そこで私は七海さんを待ちたい。
もしあの世に海がなければ、七海さんは来ない方がいい。彼だけでも、あの美しい海へ行ってほしい。
浮遊感。真っ暗な世界に放り出されたその先で、私は黒い閃光を見た。

▼ ▼ ▼

目の前の、皮膚を貼り合わせた顔が悪趣味な笑みを浮かべる。もう少しでいいから、彼女と同じ時間を過ごしたかった。彼女とあの暖かい海に行きたかった。無茶な願いだろうが、彼女なら受け入れてくれるだろう。
だがそれを伝える先は無い。
右腕はもう上がりそうにない。
虎杖君へ告げた言葉に込められないのは、みょうじさんのことだけだった。自分でもなぜ動けているか分からない左半身、その手にある指輪の重さを感じる。彼女さえも近くに感じた。死の間際の幻覚と思いながらも、それに縋りそうになった時だった。

「は?」
ツギハギの声が漏れ、呪力が爆ぜた。飛び散ったのは私の血肉ではなく、あの彼女の呪力。それも普通の威力ではない。明らかな“黒閃”。
もう感覚の無い左胸に触れていた、ツギハギの右腕が無くなっている。
「何コレ?」
ツギハギは腕を作り直し、また私に触れるが、続けてその腕が爆ぜる。
ある。私の中に彼女の呪力が。終わりかけていた熱力が体の中に戻ってくる。身を引いてツギハギから逃れると、周囲にあった改造人間が破裂していく。爆音をたて、血と肉塊が構内に飛び散った。天井に貼り付いたそれは一気に雨のように滴り落ち、視界を不明瞭にする。
「ナナミン!?」
「虎杖君!態勢を崩さないで!!」
ツギハギの手から新しい改造人間が放たれるが、その側から爆破されていく。血と肉の目くらましの隙間からツギハギの腕を切り落とそうとすると、気取られて飛び退かれるが、そこに虎杖君がタイミングを合わせ攻め込んで来る。
連携を。再度、鉈を振り上げようとしたが右肩に力が入らない。一瞬動きが遅れた間に、虎杖君とツギハギは交戦しながら改札の向こうへ行ってしまった。
急激な疲労が堰を切って襲ってくる。虎杖君の方へ向かおうとしたが、今まで感じなかった左半身の痛みまで戻ってきた。行かなければ……いや、もう足手纏いだ。私が改造されてアレに使われてしまったら、虎杖君は攻撃ができなくなるだろう。応援を呼ばなくては……。
私が殺した改造人間の爆破はしばらく続いたが、威力は目に見えて小さくなり、やがて収まった。まだ残っている。彼女は、自分でやめたりしない。
「クソッ……」
みょうじさんの呪力を、もう私の中に感じない。何が起こったか分からない。だけどもうここに彼女はいない。それだけは理解できた。右手から鉈が落ちた。

「七海さん!大丈夫ですか!救助に来ました!」
聞き慣れない声が響いた。まだ改造人間がいるかもしれない。鉈を拾い、できる限り早く声の方に向かうと、ヘルメットを被った男性がエスカレーターから駆け下りて来たが、私の姿を見て息を呑むのが分かった。
「……酷いですか。あまりもう、右目も見えていないので」
「重症です……早く救護所へ」
足元がふらつく。肩を貸してもらい、駅の外に出ると、もうひとり救助隊員がいた。
その側には、みょうじさんが横になっていた。鼻や目から出血し、いつもの指通りのいい髪は血で顔にこびりついていた。肌にも明るさは無く、白く、生気が抜けている。全身を弛緩させて横になった姿は、あの時と全く同じだった。泥と血、それからアルコールの臭い、徐々に熱が抜けていくあの感覚。私の重い体は上手く動かない。足がもつれる。
彼女の手をにぎる。冷たい。全く熱が無い。
また、だ。私は、また。

「大丈夫ですよ、七海さん」

声が聞こえた。弱々しくも、みょうじさんは笑う。彼女は確かに私の手を握り返していた。

2021-01-10
続きます
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